教会史と文化との関わり
2022年08月26日(木)
私たちのためのイエスの祈り
2022年09月14日(木)
教会史と文化との関わり
2022年08月26日(木)
私たちのためのイエスの祈り
2022年09月14日(木)

何からの救いなのか?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第十章の記事です。

キリスト教の普遍的なシンボルといえば十字架です。イエスの宣教の本質が、十字架に結晶化されています。イエスの大いなる受難を最も深く捉えています。まぎれもなく、十字架こそキリスト教の中心なのです。パウロはそのために、キリストとキリストの十字架のほかには何も語るまいと決心したと大言壮語しています(一コリ2:2)。パウロは、油絵具やノミと石の代わりに言葉を使い、後に偉大な芸術家たちが「実りの瞬間」と呼んだ技法を用いています。レンブラントやミケランジェロは、被写体の人生の場面を何枚もスケッチして、その中から形にのこすべき一枚を選んで作品にしました。ミケランジェロが、たった一つのポーズからダビデの本質をその彫刻に表現しようとしたのも、その例です。

パウロにとって、十字架こそがイエスの生涯と宣教の「実りの瞬間」でした。ある意味、パウロの書簡はすべてこの決定的な御業の詳しい注解書に過ぎません。それは、イエスがご自身の時を迎えられた宣教、イエスが生まれ、バプテスマを受けた本来の目的である宣教に対する、注解書です。この宣教をイエスが遂行することは、あらかじめ定められていました。神学で「キリストの大いなる受難」と呼ばれる瞬間に向かって、イエスは粛然と前に進まれます。そこに至るまでには、血の汗が流れるほどの苦悩がありました。イエスの人生のすべてが、イエスの死というクライマックスに収束する瞬間です。

もし、私たちが新約聖書のメッセージを初めて聞いた世代として読むことができたなら、キリストの十字架という出来事が、復活と昇天も含めて、新約の共同体における説教、教え、教理問答のまさに中核をなすメッセージであったことがはっきりとわかることでしょう。十字架が聖書的なキリスト教の中心要素であり、周辺的なものではないというのであれば、クリスチャンは十字架の意味を聖書的な言葉で理解すべきであり、それは必須と言えます。これはどの時代にも言えることですが、今の時代においては特に必要なことだと私は考えます。

十字架の重要性

二千年にもおよぶキリスト教の歴史の中で、現代ほど、十字架の重要性、十字架の中心性、そして十字架の必要性の問題が物議を醸したことがいまだかつてあったでしょうか。キリストによる贖罪の必要が、今日ほど大々的に攻撃されることは、キリスト教史上初めてでしょう。歴史的観点から見ると、教会の歴史の中にはキリストの十字架を不要な出来事と見なす神学が登場したこともありました。このような神学は、十字架の価値は認めながらも、人々に対して十字架が究極的または重要な意味を持つことはないと主張するものでした。

クリスチャンではない理由について人が話すとき、私が興味深く感じることは、彼らはキリスト教の真理を必ずしも否定しているのではないということです。それよりも、彼らは自分にキリストが必要だと感じたことがないというのです。あなたもこのような言葉を何度も聞いたことがあるのではないでしょうか。「キリスト教は真理かもしれないし、真理ではないかもしれない。しかし私は個人的にイエスが必要だと思わない」「私には教会が必要だと思わない」または「私にはキリスト教が必要だと思わない」 このような言葉を聞くたびに、私の内で霊がうめくのです。人々がこのような態度を貫いた末に起こるであろう結末を考えると、私は恐れに震えずにはいられません。もし彼らに、キリストというお方について、そしてキリストの御業の真理を説くことができたなら、世界中の人がキリストを必要としており、キリストなしには神からの救いはないことがすぐに明らかになることでしょう。

少し前のことですが、私はショッピングモールの大きな書店にふらりと立ち寄りました。そこは一般の書店で、販売中の本がずらりと数列の本棚を埋め尽くしていました。店内は、フィクション、ノンフィクション、ビジネス、スポーツ、自己啓発、性と結婚生活など、様々なジャンルごとに目立つように区分けされていました。店の一番奥の方にあったのは、宗教書のコーナーでした。本棚4つ分ほどのスペースを占めています。店の中ではそのコーナーが一番小さいようでした。しかもそこに並んでいるのは、正統派で伝統的なキリスト教とは到底相容れない内容の本ばかりです。私は自問自答しました。「この店はフィクションや自己啓発の本ばかり売って、聖書的な真理に関することには見向きもしないなんて、一体どうなっているんだ」 しかし、この書店の店長は宣教のために存在しているのではないということに、はたと気がついたのです。書店はビジネスのために営業しています。利益を生み出すために存在するのです。キリスト教の本が多く売られていないのは、店に来る人の中で「キリストの贖罪の深さと豊かさについて教えてくれる本は、どこにありますか」と尋ねる人が滅多にいないからでしょう。

そこで私は、クリスチャン・ブックストアに行けばそのような販売文句が見られるだろうか、と考えました。しかし、それも違います。クリスチャン・ブックストアにも、キリストの十字架に関する本はこじんまりと置かれているだけです。私は座って、ショッピングモールを行き来する人々を眺めながら考え込んでいました。すると私のうちに、ある思いが湧いてきました。それは、恐ろしい思いでした。このモールを行き来している多くの人々は贖罪について気にも留めていない、なぜなら彼らは贖罪が必要だと信じていないからです。現代の人々にとって、贖罪は単に「必要性」のないものなのです。彼らは「どうすれば神と和解できるだろうか? どうすれば神の裁きから逃れられるだろうか?」という問いに迫られることもありません。

私たちの文化から、紛れもなく失われたものが一つあります。それは、人間は自分の人生について、私的に、個人的に、容赦無く、神の御前に説明する責任があるという考えです。想像してください。突然照明が照らされ、世界中の人がこう言うのです。「いつか私は自分の創造主の御前に立ち、私が語ったすべての言葉、私が行ったすべての行い、私が考えたすべての考え、そして私が失敗したすべての仕事について、説明しなければならない。私には説明する責任があるのだ」

もしすべての人がこの事実に目を覚ますとしたら、何が起こるでしょうか。二つの可能性があります。人々はこう言うかもしれません。「確かに、私には説明責任があるだろう。しかし、私が責任を負うべき相手、すなわち私の前におられるお方は、私がどんな人生を送るかについてさほど気にしていないんだから、素晴らしいじゃないか。だって神様も、人間は所詮人間だってわかっているだろう?」 このようなことを皆が言うとしたら、何も変わらないでしょう。しかし、もし人々が二つのことを理解したら — すなわち、神が聖なるお方であり、罪は神の聖さに反するものであることを理解したら — 彼らはすぐさま教会の扉を叩いて、こう願い乞うでしょう。「救われるためには、何をしなければならないのでしょうか?」

私たちは、救い主なんて必要ないと思いたいかもしれません。しかし、贖罪と十字架とキリスト教は、私たちが救いを切実に必要としていることを第一の前提としているのです。その前提は現代の文化では受け入れられていないでしょう。しかしだからといって、救いが必要だという現実が軽減するわけではありません。

残念ながら、今日のアメリカ合衆国において、一般的に受け入れられている義認の教理は信仰のみによる義認ではありません。さらには、行いによる義認でもなければ、信仰と行いを合わせたものによる義認でもありません。私たちの文化での一般的な義認の理解とは、死による義認です。誰でも、死のみによって、永遠なる神の御腕に抱かれるのです。必要なのはそれだけです。不思議なことに、死は私たちの罪を消してくれるようです。だから、贖罪は必要ありません。

神学者である私の友人は、教会の歴史上に生まれた神学は基本的に3種類しかないと度々話していました。様々な神学の学派による微妙なニュアンスの違いはありますが、最終的には、神学は3つのカテゴリーに分けることができるということです。それは、ペラギウス主義、半ペラギウス主義、そしてアウグスティヌス主義です。西洋の教会史の中で、また東洋の教会史の中で、事実上すべての教会がこの3つのカテゴリーのいずれかに分類されます。半ペラギウス主義とアウグスティヌス主義は、キリスト教の教派間で聖書解釈や神学に関する意見の違いから、重要な論争を展開してきました。しかし、ペラギウス主義としてまとめられる様々な思想は、単なるクリスチャン間の内輪もめなどではありません。ペラギウス主義は、良く言っても準キリスト教、悪く言えば反キリスト教的です。4世紀のペラギウス主義、16世紀から17世紀にかけてのソッツィーニ主義、そして現代の特徴的な神学として自由主義神学と呼ばれるものは、本質的に非キリスト教的です。なぜなら、これらの見解の中心は、イエス・キリストの贖罪の否定であるからです。神の正義を満たすための御業としての十字架を否定しています。何世紀にもわたって、正統派キリスト教は、贖罪をキリスト教信仰の必須条件とみなしてきました。贖罪の御業としての十字架を取り除くことは、キリスト教を取り除くことを意味します。

ペラギウス主義、ソッツィーニ主義、自由主義神学が、キリストの十字架の意義について何の見解も持っていないわけではありません。彼らは、十字架が示しているのはイエスが人間のための道徳的な模範として死なれたということだと主張します。つまり、実存的な英雄として、自己犠牲と人道問題への献身によって人々にメッセージを与えるためのものに過ぎない、という考えです。しかし、このような道徳的な模範は、贖罪には不十分です。

私が神学校にいたとき、同級生の一人が説教学の授業で説教をしました。内容は、子羊として私たちのために屠られたキリストの十字架についてでした。彼がその説教を終えると、教授は激怒していました。そして、まだ説教壇に立ったままの神学生を、口汚く罵倒したのです。彼は頭に血をのぼらせて言いました「よくもこの時代に、キリストの身代わりの贖罪について説教したものだ!」 彼は、身代わりの贖罪など、一人の人間が死んで他人の罪を背負うという古風で時代遅れの見解だと考えたのです。彼は、私たちが神と和解するための宇宙的な取引きとしての十字架を、断固として否定したのでした。

しかし、新約聖書からキリストの和解の御業を取り除くと、そこには唯一無二とは言い難い道徳主義しか残りません。しかもそれは、人に命をかけてでも手に入れよと説得するほどの価値もないものです。ペラギウス主義や自由主義には、救いはありません。ペラギウス主義や自由主義には、救い主は存在しません。なぜなら、これらの思想には、救いが必要だという確信がないからです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

R・C・スプロール
R・C・スプロール
R・C・スプロール博士は、リゴニア・ミニストリーズの設立者であり、フロリダ州サンフォードにあるセント・アンドリューズ・チャペルの創立牧師、また改革聖書学校(Reformation Bible College)の初代校長を務めた。彼の著書は『The Holiness of God』など100冊を超える。