
キリスト
2025年03月11日(木)救い

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第八章の記事です。
第一次世界大戦はヨーロッパを根底から覆し、啓蒙時代の楽観的思考を崩壊させ、ポスト啓蒙時代の到来を告げました。しかしアメリカでは、戦争の脅威にも阻止されない若者たちが、社会活動を通して神の国を地上にもたらそうと試みました。彼らは自分たちのメッセージを「社会的福音」と呼び、これを中心的に率いた説教者ウォルター・ラウシェンブッシュ(1861-1918)は、ヘルズ・キッチン(ニューヨーク)で目の当たりにした貧困に対処するために社会改善の「福音」を説き、社会的行動を通して神の国を地上に実現しようと務めました。これが彼らの救いの定義だったのです。
J・G・メイチェン(1881-1936)もまた、第一次世界大戦を生き延び、別の教理を擁護しました。その教理とは、目に見える教会は地上におけるキリストの霊的王権を象徴するものであり、クリスチャンは、ジャン・カルヴァンの言うところの「二つの統治」(『キリスト教綱要』3.19.15)の中に生きている、というものです。メイチェンにとって、救いは地上に完全にもたらされるにはあまりにも壮大な思想でした。彼は、「キリスト教は生活」であると認識していましたが、それはどのようにして生み出されたのでしょうか。社会的福音主義者たちは、それが「勧めによって」もたらされることもあると考えましたが、メイチェンは、そのようなアプローチは常に「無力」であることがわかったと書いています。 彼はこのように説明しています。「不思議なことに、キリスト教は全く異なった方法を採用したのである。キリスト教は人間の意志に訴えるのではなく、一つの物語を語ることによって人間の生活を変革した。勧めによるのではなく、出来事を語ることによってであった」 メイチェンは、このような方法は「非実際的」に見えるとしました。「これがパウロの言う『宣教の愚かさ』である。それは、古代世界において愚かに見えたが、今日でもリベラリズムの説教者には愚かに思えるのである」 しかしながら、「その効果は、現在の世界にも現れている。最も雄弁な勧めが失敗したことを、出来事の単純な物語が成功しているのである。人々の生活は一片の報道によって変革される」
社会的福音は、人間の問題を物質的貧困に矮小化しました。パウロから学び、アウグスティヌス派であったメイチェンにとって、私たちの抱える問題は貧困よりもっと根深いものでした。1935年のラジオ演説で彼は、罪とは、進歩主義者や社会的福音主義者が訴えるような「反社会的行為」よりも、もっと大きなものだと説明しています。罪の真の定義は、「神の命令に背くこと」です。ウェストミンスター小教理問答には見事な定義があります。「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、あるいは、それに違反することです」(問答14) 社会的福音主義者にとって、罪の報酬は貧困に過ぎませんが、メイチェンにとって、またパウロやアウグスティヌスにとっては、「罪の報酬は死である」(ローマ6:23)のです。その死は、他ならぬ、永遠の刑罰を意味します。キリストの義が、信仰のみを通して、恵みのみによって、「キリストにある」すべての人に転嫁されるように、アダムの罪も、アダムにあるすべての人に転嫁され、そこには「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世2:17)という呪いがあるのです。罪は「永遠の刑罰に値する」のです。
この点から、メイチェンの救いの教理——すなわち、神の怒りからの解放と祝福と恩恵に満ちた状態に入ること——を私たちは理解する必要があります。神が救われるのは罪人であり、彼らは恵みのみによって、信仰のみを通して救われるのです。メイチェンはラジオ演説の中で、かなりの時間を使って古代の異端者ペラギウス(紀元後410年没)について説明しました。この人物は、アウグスティヌスの罪と恵みに関する見解を否定しましたが、その主張はエフェソス公会議(紀元後431年)にて非難されました。ペラギウスは、私たちはみな、アダムがそうであったように生まれながらに善であり、サタンではなくイエスに倣うなら、恵みの助けなしに完全な状態に至る可能性があると教えました。メイチェンが、近代主義者たちとの争いによってペラギウスに駆り立てられたのは間違いありません。近代主義者たちの主張は、ペラギウスの主張と非常に似ていたからです。ペラギウス派の罪に対する見解は「浅薄」とメイチェンは苦言を呈しています。聖書的(そしてアウグスティヌス派の)堕落の教理は、私たちは罪とその影響によって腐敗しているため、自分自身を救うことなど到底できないというものです。私たちは神の無償の、主権による恵みに、完全に依存しているのです。メイチェンによる救いの教理は素晴らしく明確です。
「イエスは、人が自らを救うことを可能にされたのではない。そうではないのだ。イエスはそれよりも大いなることをされた。イエスは人々を救ってくださった。まったく抵抗できない力によって、彼らを救ったのである。神の選民の救いに至るすべての段階は、神の永遠の計画のとおりに行われた。これが、私たちが聖書的な救いの教理として明らかにしたい中心的なことがらである。繰り返して言おう。そうすることであなたの思いと心に永遠に印象付けることができるなら、私は100回でも喜んで繰り返し言いたい。神は、その救いのみわざによって、罪人が自らを救うことを可能にされたのではない、神が彼らを救ってくださったのである」
メイチェンは、これとほぼ同じ内容を1923年出版の『キリスト教とは何か』で述べています。
社会的福音主義者たちは、私たちは「愛によって」自らを「救う」ことができ、また救わなければならないと教えました。しかしメイチェンにとっては、このような教理は「半ペラギウス主義」に過ぎません。社会的福音主義者たちにとって、この世の希望とは、あたかもイエスが単なる教師や預言者であるかのように「イエスの原理を適用すること」でした。しかしメイチェンにとっては、「聖書中心にあるキリストの救いのみわざは、聖霊によって個人の魂に適用される」ものです。したがって、私たちは「単なる『イエスの原理』とやらに、社会に対する永続的な希望はまったく見受けられないが、私たちはそれを個々の魂の新生に見出す」のです。
メイチェンが少年時代に知っていた世界は、第一次世界大戦中のフランスの戦場で滅びてしまいました。しかし彼にとって、社会的福音主義者たちとは違い、福音は決して滅びなかったのです。国家や帝国は崩壊します。しかし、キリストは支配され、キリストの福音は継続し、キリストの教会は存続するのです。なぜなら、文化が崩壊しようとも、神は決して変わることがなく、罪人は、他でもない、神の怒りから救われなければならないからです。
1『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。 p. 69.
2 同上 p. 69.
3 同上 p. 69.
4 同上 p. 70.
5 同上 p. 70.
6 『改革教会信仰告白集——基本信条から現代日本の信仰告白まで』関川泰寛、袴田康裕、三好明編、2014年、教文館。p. 656.
7 メイチェンの1935年ラジオ演説からの引用の日本語はすべて訳者による。
8 『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。 p. 68.
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。