ヨハネの手紙第一4章8節
2022年12月13日(木)
あらゆる慰めに満ちた神
2022年12月20日(木)
ヨハネの手紙第一4章8節
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2022年12月20日(木)

ヨハネの黙示録3章20節

編集者注:これはテーブルトーク誌の「この聖句って本当はどういう意味?」というシリーズの第十二章の記事です。

何年も前、家のポーチで読書をしていると、「あなたはイエスを心に受け入れていますか」と声を掛けられました。私の戸口に立っていたのはカルト信者ではなく、私の心の状態を心配し、心の扉を開いてイエスを受け入れるようにと私に懇願する福音派のクリスチャンでした。私は、彼らの熱心なクリスチャンとしての証しには感謝しつつも、そのアプローチに戸惑いを覚えました。もし救いのために、私が扉を開いて、心の中にイエスを招き入れるのを、イエスが待っておられるのなら、その扉は決して開かないことを私は知っていたからです。

この誤解は、人々が、悔い改めて信じなさい、と言うイエスの呼び声をどう聞くかに関して、悲惨な結果を生んでいます。王座に座り、使者を通して「子に口づけせよ。主が怒り おまえたちが道で滅びないために」(詩篇2:11-12)と号令する存在から、私たちに受け入れられることを、ひざまづいて切望する農奴のような存在へ、イエスを矮小化してしまったのです。まるでイエスが私たちに取り入る必要があるかのように。このようにして、私たちは人々がイエスを真剣に受け止める必要性を小さくしてしまったのです。今日心にイエスを招き入れましょう、という言葉とよく同時に主張されるように、もしイエスが私を愛していて、私の人生のために素晴らしい計画を用意してくださっているのなら、イエスを心の中に招き入れるかどうかはほとんど関係ありません。

イエスが心のドアをノックしているというアイデアは、大概ヨハネの黙示録3章20節に基づいています。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」 この聖句は個々人の心の状態について言及しているのではありません。これはラオデキヤの教会への忠告なのです。キリストから与えられた、宣べ伝えるべき御国の福音から離れたことを悔い改めるなさい、という忠告です。

多くの学者は、ラオデキアには清潔な水がなく、近くの温泉から水を引く必要があったことを指摘します。しかし、その水は市内に届いた時にはすでに、汚染され、ぬるくなり、使い物にならなくなっていたことが多かったのです。イエスは、ラオデキヤの教会の霊的な状態を、生ぬるい水を飲むという不快な体験と結びつけておられるようです。ラオデキヤの教会が自分たちの飲み水を吐き出すことがあったように、イエスもまた、ラオデキヤの教会の行いが御国にとって役に立たないので、吐き出すと宣言しておられるのです。

ラオデキアの教会の問題は何だったのでしょうか。イエスは、ラオデキアの教会が、自分らは豊かで、繁栄しており、何も必要としていないと自認していたと言われます。しかし、自分たちの霊的な貧しさを知らず、自分たちが「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」(17節)ことを自覚しようとしなかったのです。ラオデキアの教会は、繁栄に酔いしれ、福音を捨て去っていました。その働きは高慢と自惚れに満ち、霊的な生活と証しにおいてイエスに頼ることを欠いていました。教会が語るメッセージは、この自律性を反映し始めました。イエスの生涯と死と復活を知らせる和解の務めは、もはや最重要事項ではなく、それぞれの計画、能力、教会のあるべき姿に焦点が当てられていたのです。彼らの働きは、人々を罪からの救い主であるイエスに導くことではなく、独善的な働きになっていました。彼らは、イエスが正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来られたことを忘れていました(ルカ5:32)。

この文脈の中で、イエスは教会を厳しく警告されます。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」 この「たたいている」は、使命を忘れてしまった教会に対する訓戒とさばきです。イエスがラオデキアに来た時に、何を見るでしょうか。もし教会がイエスに聞き従うことをしないなら、裁くために戸を開くのです。しかし、教会が悔い改めるために戸を開くなら、イエスは入って彼らとともに食事をし、彼らはイエスが共におられることを喜ぶのです。

ヨハネの黙示録3章20節において、イエスは私たちの心の戸の前でひざまずいて中に入れてくれと頼んでおられるのではないのです。この聖句を個人に当てはめるなら、キリストへの信仰を公言している人たちに対して、厳しい懲罰が下らないように悔い改めなさいという警告になります。しかし文脈を汲むなら、この聖句は、教会という共同体が、外面的な繁栄に自信を持ち、失われている世界に命をもたらす唯一のメッセージを放棄していることに対して、真剣に悔い改めるように呼びかけているのです。悔い改めることを拒否した教会には、イエスの懲罰が下されます。

イエスのいのちと死と復活のメッセージを捨てて、自分たちの能力に自信を持つようになったら、もはや真の教会として機能しなくなり、イエスに退けられる危険性があります。この警告は、1世紀のラオデキアと同じように、今日の教会にも当てはまります。私たちが行っている建築プロジェクトや教会の発展のための努力は、私たちがイエスの御名の忠実な証人となることを最も重視していることを示しているでしょうか、それとも単に自分たちの気分を良くするための見せかけでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節でイエスが教会のドアをたたかれるのは、このような思いからなのです。教会は、失われている世界に和解の務めを宣べ伝えるために存在していることを決して忘れてはなりません。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

クリストファー・J・ゴードン
クリストファー・J・ゴードン
クリストファー・J・ゴードン牧師は、カリフォルニア州エスコンディードにあるエスコンディド合同改革派教会の主任牧師であり、「Abounding Grace Radio」のパーソナリティーもつとめている。