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神の怒りとは


神の怒りとは、私たちのきよい義なる神が、キリストの贖いによって覆われていない罪と罪人に対して示される応答のことです。多くの人は、神を怒る方だと考えることを好みませんが、聖書は頻繁に主が悪に対して怒りを燃やされることを示しています。旧約・新約聖書を通して、神が不義に対して怒りを下されることは十分に証しされています(申命9:8; 二列王23:26; 詩篇21:9; 90:11; イザヤ13:9; ミカ5:15; ゼパニヤ1:18; ヨハネ3:36; ローマ1:18; エペソ5:6; 黙示16:1参照)。

神の怒りと神の属性

神は、ご自身の性質ゆえに、不義に対して怒りを下されます。。聖書は、神が義なる正しい方であると証ししています(申命32:4; ダニエル9:14; ローマ1:17; 黙示15:3)。神が悪と悪を行う者を罰せられないなら、神は義なる正しい方とは言えません。したがって、神が罪に対して怒りを注がれるのは、その義なる性質と何の矛盾もありません。罪人は、自ら犯した罪の責任を負わなければなりません。そして神は、正義の怒りを下すことなくその有罪を無罪とすることはできません。そうすれば神ご自身が不義となってしまいます(出エジ34:6-9)。神は愛であり(一ヨハネ4:7-8)、神が愛しておられるものの一つは、正義です(詩篇33:5)。神は完全ですから、義に対する神の愛もまた完全でなければなりません。その結果、神は「悪しき者の道を忌み嫌[われ]」るのです(箴言15:9; 参照・申命32:4)。

主が怒りを示されるためには、罪が存在していなければなりません。そして、罪が存在するには、罪を犯す被造物の存在が必要です。したがって、神の怒りは、創造とその堕落がなければ現れることはないのです。この理由から、多くの神学者は、怒りを神の相対的属性(relative divine attibute)として分類し、絶対的属性(absolute divine attribute)と区別してきました。神の絶対的属性とは、主が何も創造されなくとも、常に神の属性として現れ、行使されるものです。例えば、永続性や全知性などがこれに含まれます。神が宇宙を創造されたかどうかにかかわらず、神は永遠であり、すべてを知っておられるからです。

これに対して相対的属性とは、神がご自身の外にある何かと関わりを持つときにのみ現れる属性です。先に述べたように、怒りが神の相対的属性と呼ばれるのは、もし罪人が存在しなければ、神の怒りが現されることもないからです。しかしこれは、神の怒りが(あるいは他のいかなる相対的属性も)、創造のみわざによって神に新たに加えられたものであるという意味ではありません。神が罪に対して怒りという応答を示されるのは、神が本質的に善であり義であられるからです。神の怒りが現れたのは、被造物が変化し、罪人になったからであり、神ご自身が変化したのではありません。罪人は、本質的に義である神の御前に立つとき、怒りを経験します。それは、堕落によって主が新しい属性を得たからではありません。すなわち、神は変わることがないのです(マラキ3:6)。

神の怒りを受けるとき

聖書は、神の怒りが実に恐ろしいものであることを明確に示しています。聖書はしばしば、神の燃える怒りについて語り(出エジ32:11; 哀歌4:11)、自らの罪を悔い改めてキリストに立ち返ることのない罪人に対する、神の永遠の怒りの場所を「火……の池」と表現しています(黙示20:10)。またイエスは、イザヤ書66章24節から引用し、地獄では「彼らを食らううじ虫が尽きることがな[い]」と語られました(マルコ9:42-49)。このように、私たちの救い主は、神のさばきについて、決して終わることのない破壊的な滅びとして表現しておられます。預言者たちや使徒たちは、「主の日」に訪れる大いなる破壊と滅びについて語っています。この「主の日」は、歴史の中の特定の時点に神のさばきが注がれることを指す場合もあれば、終わりの日における神の最終的なさばきを指す場合もあります(イザヤ13:6; エゼキ30:3; ヨエル1:15; 二ペテロ3:10)。

これらの描写のため、多くの人は、神の怒りとは単に火を伴う劇的なさばきの現れのみを指すと考える傾向があります。しかし、そのように神のさばきが現れるのは、はるか以前から注がれてきた神の怒りの完成形に過ぎないことを理解するのが重要です。ローマ人への手紙1章18-32節のような箇所を見ると、神はしばしば、そのすべての怒りを一度に注がれるのではなく、時間をかけて示されるということがわかります。パウロによれば、神は人々を彼ら自身の罪に引き渡し、その罪にさらに深く絡め取られるままにさせると言い、それこそが神の怒りの現れだと教えています。神はあえて、悔い改めない罪人たちが望むままに、罪を行い続けることを許されます。そのように長く罪を行わせてから、火のさばきで打ち砕くのです。神はその怒りの中で、悔い改めない者を彼らの罪に引き渡されます。

神の怒りのもとにある者への希望

神の最後の怒りの日が、罪人たちに訪れることは確かです。しかし、幸いなことに、神はあわれみ深く、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス・キリストを与えてくださいました(一テサ1:10)。イエス・キリストは、受肉された神の御子であり、義なる神が罪に対して与える罰を背負うために来られました。イエス・キリストにおいて、神はご自分の怒りを注がれ、その怒りをご自身で引き受けられるのです。これによって——キリストにあって罪が罰せられたことによって——神はご自分の正義を示されます。また同時に、神があわれみに満ちた方であることも示されます。すなわち、キリストの贖罪は、罪から離れイエスに信頼する罪人にとって、神が宥められた、つまり好意的な存在となることを指すからです(ローマ3:21-31)。主は、恵みとあわれみを喜んで示されます(ミカ7:18)。そして、救いにおいてただイエスにのみ信頼する人はみな、永遠の神の怒りから完全に救われるのです(ヘブル7:25)。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル牧師は、テーブルトーク誌の副編集長、リゴネア・ミニストリーズのシニアライター、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeの非常勤教授を務めている。2021年のテーブルトーク誌のコリント人への手紙第一、第二の日課の学びを執筆。