
聖書を正しく解釈する
2022年11月09日(木)
エレミヤ書29章11節
2022年11月15日(木)イザヤ書43章25節

編集者注:これはテーブルトーク誌の「この聖句って本当はどういう意味?」というシリーズの第二章の記事です。
私の会衆の長老はよく「歳を取るにつれて、二つ目に衰えていくのは短期記憶らしい。一つ目は、、、思い出せない」と冗談を言います。記憶は歳とともに衰え、罪によって歪められもするのは人類共通だとクリスチャンは認めるでしょう。しかし、神がイザヤ書43章25節において、「もうあなたの罪を思い出さない(新改訳2017)」と言われる時、私たちは、神の記憶についてどう理解すべきなのでしょうか。この聖句は重要で素晴らしい真理を説いていますが、神が忘れる(訳注:つまり「思い出せない」)という意味に逐語的に解釈してはならない理由がいくつかあります。
類比的言葉(Analogical Language)
聖書全体を通して、私たちの無限の神は、類比的な言葉によってご自身を明らかにされます。これらは、私たち人間の限られた言語と有限な理解力に合わせた、神について逐語的描写ではなく、比喩的表現なのです。このように聖書は、嗅ぐ(創世8:21)、聞く(出エジ2:24)、座る(詩篇9:7)、降りてくる(ミカ1:3)など、人間の行為を神にあてています。また、悔い、悲しみ(創世6:6)、ねたみ(出エジ20:5)などの人間の感情も、神がどのような方であるかを類比して教えてくれているのです。神にはからだはありませんが、聖書は神の手(詩篇118:15)と目(箴言15:3)について述べています。また、人間の役職や人間関係の言葉でもって、夫(イザヤ54:5)、父(申命32:6)、王(イザヤ44:6)、羊飼い(詩篇23:1)として描写されています。神の記憶(創世9:15)と忘却は、このような類比的な言葉として解釈されるべきでしょう。
神の性質
神の無謬のことばはどこにも矛盾点はない、という確信から生じる「信仰の類比(analogy of faith)」は聖書解釈の重要な原則で、聖書のより明らかで、比喩的ではない箇所によって、より明らかではない、比喩的な箇所を解釈するように私たちを導きます。神の「忘却」は、私が高校数学の公式を思い出せないのと同じ、逐語的忘却ではありえないのです。なぜなら、それは神の全知、神の完全完璧な知識について聖書が教えていることと矛盾するからです。神の英知は測り知れず、(詩篇147:5)、また神が後のことを初めから告げられる(イザヤ46:10)ことを聖書は私たちに教えます。文字通り、何かを思い出せなくなることは神の性質に反するのです。
契約の言葉(covenantal language)
もし神が文字通り私たちの罪を忘れないのなら、イザヤ書43章25節はどういう意味なのでしょうか。私たちは神についてのこの描写を、神はご自分の民の罪を完全に赦す、という保証を与えるための契約の言葉(covenantal language)であると理解すべきです。25節の直前に神はご自分の民の不信実と偽りの礼拝を指摘し、「あなたの咎でわたしを煩わせた」と結びました(22-24節)。しかし43章は40章から始まるイザヤ書の大段落で、神はそこでご自分の民に慰めと安心を語っておられます。43章1-4、15節で神はご自分の民に言われます。
恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの、、、わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ、、、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
これらの保証は、神がイスラエルと、その罪にもかかわらず結んだ契約関係を伝えています。そして、25節で神は、「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と語られます。神はこのことを「わたし自身ために」行うと強調することで、神は再びご自分の恵み深い契約を指し示しておられるのです。神は民が値するから、彼らの罪を取り除くのではなく、神の純粋な恵みと愛のゆえにそうされるのです。
この聖句は、二つの比喩的表現で、イスラエルがいかに完全かつ最終的に罪が赦されたかを保証しています。第一に、「ぬぐい去る」というのは、書かれたものを消すという意味です。イスラエルの罪は、それぞれ神に対するさばきの対象であり、本に書かれていたかのように記されていますが、神はそれをすべて消されたのです。もう読むことはできないし、神の民を責めることもできないのです。第二に、神はイスラエルに、彼らの罪が忘れられたも同然であると保証されます。神は、もう二度とその罪を持ち出して、神の民を責めるようなことはなさいません。聖書の中で神は、このようなイメージをいくつか用いて、神の赦しとその恩恵がいかに完全で最終的なものであるかを強調しておられます。神は私たちの罪を覆い(詩篇32:1)、東の果てから西の果ての距離ほど遠く離し(詩篇103:12)、海の深みに投げ込む(ミカ7:19)、と言っておられます。
聖書の他の箇所は、神が罪深い人々とそのような契約関係を築くことがおできになるのはどうしてか、神がご自分の民の罪を「忘れる」ことがおできになるのはどうしてかを明らかにしています。それは度忘れでもなく、使い古された表現でもありません。神が民の罪を「忘れる」ことがおできになるのは、神が御子を遣わして、ご自分の民の罪をすべて負わせ、民の代わりに十字架上で死なせ、彼た罪の罪を消し去り、ご自身との関係において永遠に忘れられたかのようにされたからです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。