コリント人への手紙第一13章13節
2022年11月29日(木)
ピリピ人への手紙4章13節
2022年12月06日(木)
コリント人への手紙第一13章13節
2022年11月29日(木)
ピリピ人への手紙4章13節
2022年12月06日(木)

ガラテヤ人への手紙3章28節

編集者注:これはテーブルトーク誌の「この聖句って本当はどういう意味?」というシリーズの第八章の記事です。

ガラテヤ人への手紙3章28節におけるパウロの言葉は様々な誤った立場を支持するために引き合いに出されていますが、一般的に二つの方法で間違って解釈されています。一つは、パウロが人間の区別をすべて消し去ると言っているかのように読み違えることです。もう一つは、パウロが言っていることの重要性を過小評価することです。

まず、ガラテヤ人への手紙3章28節を引用して、男女同役主義(egalitarianism)、トランスジェンダー主義(transgenderism)、包括的文化同質化(comprehensive cultural assimilation)、民族間の無差異(ethnic indifference)、マルクス主義的無階級社会社会(classless society)などを主張する人がいます。しかし、これらの思想はパウロの主張とは無関係です。パウロが主張している同質性は救いに関するもので、人類に存在する区別の無差別的撤廃ではありません。実際、いくつかの区別-例えば、安息日と平日の区別(創世2:2-3; 出エジ16:22-26; マルコ7:19)、労働と休息の区別(創世2:15; 二テサ3:10; ヤコブ5:4)、男女の役割(gender roles)(創世2:18; 一コリ11:3-16)-は創造の時点で定められたものです。この現実はパウロが言及した三つのカテゴリー、すなわち、性別の役割(男と女)、社会的労働的区別(奴隷と自由人)、民族性(ユダヤ人とギリシア人)が総じて、不変的に適切であることを示しています。

男と女 キリストの働きは男女の役割を廃止するものではありません。例えばガラテヤ人への手紙3章28節とエペソ人への手紙5章22節の間に何の矛盾もありません。なぜなら、片方は救いに関するもので、もう片方は家庭における男女の役割に関することだからです。そして教会においても、例えば、教会の役職は資格のある男性にのみ許される(一テモテ2:15)など、ある種の区別は続けて存在します。

奴隷と自由人 パウロのピレモンへの懇願は、社会的労働的な区別を前提としながらも、その違いに福音を照らし合わせることで、ピレモンとオネシモが目上の人と目下の人の関係でありながら、何よりもまず救い主に結ばれた兄弟であることを思い出させています(一コリ12:13も参照)。

ユダヤ人とギリシア人 民族と文化は、それ自体は創造による制度ではありませんが、摂理的に定められたものです(使徒17:26参照)。私たちは自分が生まれる民族や文化を選ぶことはできませんが、キリストの贖罪は、神の摂理的知恵を否定するものではないのです。

文脈、そして聖書の類比(聖書が聖書を解釈する、という原則:the analogy of Scripture)によって、私たちはパウロがすべての区別の撤廃を説いているのではないことを知ります。しかし、キリストにおける一致を犠牲にし、肉的区別を殊更に強調するという、同等かつ反対方向の誤りもあります。ガラテヤ人への手紙では、パウロは違いを維持することよりも、キリストが成し遂げられたことを邪魔する違いを打破することに関心があります(一コリ12:13; コロサイ3:11参照)。ここで救済史が重要になってきます。

「時が満ち」る(ガラテヤ4:4)前はユダヤ人と異邦人との間に壁がありました(エペソ2:14)。イスラエルは、「宝の民」(申命7:6)として、万民に勝って選ばれました(10:15)。しかし、諸民族は「それぞれ自分の道を歩む」(使徒14:16)ことにゆだねられました。キリストは、神が諸国民をご自分の嗣業、ゆずりとされるという預言を成就する王国を打ち立てられました(詩篇2:8; 一列王8:41-43)。キリストは宣教中も、ご自分の働きが完了するまで、諸国民を完全に包含することをお待ちになりました (マタイ10:5; 15:24)。この包含は預言されていましたが、衝撃的な展開でした。使徒の働きに記録されている、異邦人と割礼についての混乱が生じたのはこのためです(使徒10-11章; 15章)。

この混乱はガラテヤの教会にも及び、割礼派は割礼をアブラハムの子となるための追加的手段として支持していました。しかし割礼は、キリストとの結合のしるしと証印であるバプテスマに取って代わられました(ガラテヤ3:27)。では、キリストに結ばれるには何が必要なのでしょうか。何が私たちをアブラハムの子にしてくれるのでしょうか?それは民族性(ユダヤ人か異邦人か)でも割礼の有無(男か女か)でも社会的地位(自由人か奴隷か)でもないのです。信仰だけが、私たちをアブラハムの子孫に結びつけ(16, 22節)、私たちを嗣子(sons)とするのです(26節)。キリストとの結びつきによって、私たちはキリストの恩恵に共同であずかる者となり、他者に対する区別や優劣、優位性は一切ありません。キリストを信じるなら、性別、階級、人種、年齢にかかわらず、その人は他のすべての聖徒とともにキリスト・イエスの中にあり、したがって、その結合がもたらすすべての恩恵を受ける権利があるのです。

いくつかの区別は続くものの、キリストとの結合は最も大切な事柄です。信仰は第一のものです。なぜなら、信仰だけが、外面上の違いに関わらず、人々を「約束による[共同]相続人」(29節)として結びつけるからです。この世における人間的区別は比較的取るに足らないものです。そうです。どれだけ美しいと思われる文化的特色も、神の民が持っている一致に比べ、つまらないものなのです。従って、外面的関係において共通点のほとんどないクリスチャンは、そのような特徴に基づく一致と呼ばれるようなものを無限に超える一致を享受しているのです。

教会における区別は、分裂を引き起こすものでなければ、許されるものですが、えこ贔屓はどのようなものもも許されません。クリスチャンの間の交わりを阻害するような差別を許すことは、キリストが打ち壊した隔ての壁を再び作ることです。クリスチャンを外面で知る時、お互いを肉にしたがって知る時(二コリ5:16)、私たちは隔ての壁を再び作るのです。私たちがこのように言われることがありませんように。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

アーロン・L・ガリオット
アーロン・L・ガリオット
アーロン・L・ガリオット牧師(@AaronGarriott)は、テーブルトーク誌の編集長、フロリダ州サンフォードのReformation Bible Collegeの非常勤教授、アメリカ長老教会の教職長老である。