キリスト教とこの世の哲学
2025年02月26日(木)
神と人間
2025年03月05日(木)
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教理

編集者注:これはテーブルトーク誌のキリスト教とリベラリズム(自由主義神学)というシリーズの第四章の記事です。

今日、西洋世界で次々に起こっている倫理的危機の激しさを思うと、教会は教理を学ぶ努力を倍増する必要があるでしょう。私たちは、当然ながら、クリスチャンがクリスチャンらしく生きることを励まし、神の賜物としての結婚と、神のかたちに創造された男と女を教え、奨励しなければなりません。世界には暴力や中絶が蔓延り、人々は高級な食べ物やジャンクフード、より多くの性の快楽、より良い映像コンテンツ、自由奔放なドラッグ、そして世俗的な夢に夢中になっています。このような世界の中で、人の主たる目的が何であるかということへの一般的な認識が組織的に抑圧されているという悲しい現実に、私たちは思慮深く向き合わなければなりません。その中でも、私たちが特に必要としているのは、教理です。

J・G・メイチェンがその名著を書いたのは、実に深刻な倫理的な課題をはじめとする、さまざまな問題に直面していた100年前のことです。メイチェンの時代、自らを預言者として装っていた牧師たちは、民主主義の改善、礼節、そして道徳的改革の緊急の必要こそが、教会の本当の課題であると声高に叫びました。メイチェン自身は、忠実な教会、特に危機に瀕した教会は、教理を信じ、教えなければならないと主張したのです。

しかし、なぜ教理が必要なのでしょうか? メイチェンの時代、そしてそれ以前の時代において、教会は、とりわけ社会の混乱や倫理的な曖昧さに直面すると、キリスト教の教理よりも都合の良さそうな選択肢に誘惑されることが多くありました。教会には聖書以外に信条はない、と主張する教師や、会衆は教理を過剰に学んだり、17世紀の信仰告白や教理問答のような細やかな信条を学んだりする必要はない、という考えがありました。これはある程度、もっともらしく聞こえるかもしれません。メイチェンも、一般信徒についてこう語りました。「彼らは神学者の煩瑣にとらわれるということはなかったのであるから、あたかも教会に忠実な信者がだれかほかの人の罪が攻撃される時に常に感じるような、自慰的快感を味わうのである」 しかし、メイチェンが説明するように、その信徒が信条やピューリタンによる「死せる正統主義」について聞いたり、ウェストミンスター信仰告白やジョン・バニヤンの『天路歴程』を読むようになると、「人々は、そこで、浅薄な現代の空言から、一つ一つの言葉に生命が躍動している『死せる正統主義』に立ち帰ったことを実感する」のです。さらにメイチェンが指摘するところによると、教理に反対する人々は、多くの場合、古く堅苦しい信仰告白を批判するという名目のもとに、実は聖書そのものに対して、また聖書の最も基本的な教えに対して、反対意見を主張しています。さらに付け加えれば、教理に最も反対する教師たちは、しばしば自らを従うべき基準として定めているのです。

メイチェンは主に、悪質な動機をもって教理に反対する人々を相手にしていました。彼らは教理一般に反対すると主張しました。しかしそれは、特定のいくつかの教理、例えばキリストの処女懐胎、キリストの肉体における復活などに問題があることを正直に認めるよりも売り込みやすかったからです。しかし他にも、イエスに従おうとしながら、イエスご自身は「物語を語っただけ」なのだからと言って教理には反対する者もいました。また、それこそが聖書全体の主要なアプローチだと付け加える学者もいました。聖書は物語と詩を提示しているにすぎず、組織神学は提示していない、という主張です。物語や歴史書は、当然クリスチャンにとって重要です。私たちは歴史的な宗教を信じているのです。イエスは旧約聖書について語るときにこのことを教えられ、初期のクリスチャンたちも歴史を重んじ、ルカの自身の調査についての説明にもその姿勢が見られます。使徒パウロは、コリントの信徒たちにキリストの生涯、死、復活の歴史性を思い起こさせることで、その重要性を論じました(一コリ15:1-8)。

しかしながら、メイチェンが記しているように、聖書はただ物語を私たちに提供しているだけではありません。なぜならば、物語の説明も歴史物語に付け加えられているからです。その説明は物語に意味を加え、そして説明によって事実は教理となるのです。メイチェンはこう言います。「『キリストは死んだ。』これは歴史である。『キリストは、私たちの罪のために死んだ。』これは教理である」(一コリ15:3参照)。この教理へのコミットメントは、パウロの書いた書簡、初期のクリスチャンたち、そしてイエスの教えの中に根付いています。神学のリベラル派の中には、聖書は単なる物語だと信じる人が多くいます。また、キリスト教とは単なる生活であり、信じることより行うことが重要なのだと考える人もいます。これに関しても、メイチェンは助けになります。彼は、「キリスト教とは」という言葉で始まる声明は、検証されるべき声明だとしています。聖書や初期のクリスチャンの教え、さらに長いキリスト教の歴史に目を向けるだけで、それが事実であるかどうかを確認することができます。キリスト教は、教理のみではなく生活であるべきだ、という主張には、ある程度の真理すら感じられるでしょう。しかし、「『キリスト教は生活である』という断定は、『ネロ時代のローマ帝国は、自由な民主主義政体であった』という断定と全く同様に、歴史的研究の対象とな」ります。 そして、この主張を調べていくと、すでに述べたように、教理はキリスト教信仰において最初から欠かせない部分であることがわかります。

メイチェンは著書の中で、キリスト教はその中核において、教理的信仰だと強く説きました。しかし、特に西洋世界の倫理的崩壊という緊急の問題に直面している今、どうして私たちは教理が必要なのでしょうか? この崩壊の幕開けに、メイチェンは今日にも当てはまる重要な見解を述べました。それは、リベラリズムは命令形(imperative)であり、私たちが何をしなければならないかを語るが、「キリスト教は勝利の直接法[indicative]で始まる」 のである——すなわち神がどのようなお方であるか、何を成し遂げられたかを私たちに告げるものだということです。この歴史的な瞬間において、「キリスト教」と呼ばれているリベラリズムと、攻撃的な世俗主義の両方が、杓子定規で説教じみたものであることに私たちは気付かされます。公の場での関わりや、普段の会話でさえも、しなければならないこと、言わなければならないこと、言ってはいけないことなどのルールが無限に存在しています。リベラル的な社会や政治生活は、未だかつてないほどに、命令形になっているのです。

もちろん、この世の命令に対して、私たちは神の命令で戦わなければなりません。しかしそれ以上に重要なのは、その命令の根拠が、キリスト教信仰の「勝利の直接法(triumphant indicatives)」にあることです。最近、あるクリスチャン家族に突然の「カミングアウト」をして驚かせてしまった、という親しい友人と話をしていました。そのクリスチャン家族は、人間の性(セクシュアリティ)について何を信じているか、と尋ねられ、時間をかけながら、いくつかのキリスト教の命令を分かち合ったといいます。神がこの世界を造られ、今も支配しておられることを信じるなら、私たちは好き勝手に自分のルールを作り出すことはできないこと、神を敬う生き方が必ずあり、それは常に私たちの益となるよう設計されていることを話したといいます。彼らは、神が与えておられる結婚の賜物について話し、神が私たちを男と女に、神のかたちに、創造されたことを説明しました。

この会話はとても意義深いものでした。しかし、その夕べ、おそらく最も衝撃的な瞬間が訪れたのは、17歳のクリスチャンの女の子が涙ながらにこう訴えたときでした。自分はクリスチャンではない友人にキリスト教信仰は美しいものだと説明するけれど、その大切な友人はその美しさを理解できていない——だから泣かずにはいられないのだ、と。この友人は、キリスト教信仰を単なる命令の羅列と見なしていました。その子にとっては、嫌悪感を抱かせる命令以外の何ものでもなかったのでしょう。しかし一方で、この若い女の子は、クリスチャン信仰が教理から流れ出るいのちであること、その教理はいのちと、平和と、希望と、栄光を与えるものであることを知っていました。だからこそ、彼女は友人に、「勝利の直接法」というかたちで、いくつかの教理を分かち合っていたのです。

私たちは、神の律法を完全に余すところなく知るように——そしてそれを守るように——クリスチャンを、また私たち自身を訓練しなければなりません。しかし、神の直説法のことばが、どのようにこれらの命令の根拠となっているかを理解することもまた重要です。どうか、死にゆくこの世界に語る私たちのメッセージが、本来の力強さと美しさに欠けることが決してありませんように。


1 『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。 p. 66.
2 同上 p. 68.
3 同上 p. 41.
4 同上 p. 32.
5 同上 p. 68.[ “indicative”は、正しくは「直説法」]
6 同上 p. 68.[ “indicative”は、正しくは「直説法」]
7 正しくは「直説法」


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

チャド・ヴァン・ディックスホーン
チャド・ヴァン・ディックスホーン
チャド・ヴァン・ディックスホーン博士は、フィラデルフィアにあるウェストミンスター神学校の教会史の教授、およびウェストミンスター信仰基準研究のためのクレイグ・センターの所長。著書には『Confessing the Faith』など。