
神はすべての宗教の礼拝を受け入れられるのか
2026年03月24日(木)「キリストにある」とは何を意味するのか?
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:3-14)
誰かがあなたの信仰について尋ねたら、あなたは何と説明しますか? 「私は長老派です」「バプテスト派です」、あるいは「聖公会の者です」と言うでしょうか。それとも、シンプルに「私はクリスチャンです」と答えるでしょうか。
もし新約聖書の時代の信者たちに「あなたは自分をどう呼びますか」と尋ねることができたとしても、彼らが「私たちはクリスチャンです」と答えることはほとんどないだろうということは、私たちの多くは考えもしないかもしれません。実際、「クリスチャン(キリスト者)」という言葉は、新約聖書の中にわずか三回しか出てきません。弟子たちが最初に「キリスト者」と呼ばれたのは、アンティオキアにおいてでした(使徒11:26)。後に、アグリッパ王が、吐き捨てるような語り口調で使徒パウロにこう言います。「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」(使徒26:28)。さらに後に、シモン・ペテロは自身の第一の手紙の中で「キリスト者として苦しみを受ける」ことについて語っています(一ペテロ4:16)。
これら三つの文脈において、「クリスチャン(キリスト者)」という言葉は、おそらく軽蔑的な言葉、つまり福音に反対する人々が作り出した、いわば「ヘイトスピーチ」のようなものだったと考えられます。ちょうど17世紀においては「ピューリタン」という言葉がそのような扱いであったのと同じです。今日で言うと、「原理主義者(fundamentalist)」という言葉のように、ほとんど吐き捨てるように使われた可能性もあります。これらは「ヘイト用語(憎しみを込めた呼び名)」だったのです。もし「クリスチャン」という言葉がそのようにして広く使われるようになったのであれば、ルカが使徒の働きの中で「弟子」という言葉を選んで用いているのも不思議ではありません(例・使徒6:1。他にも25回以上出てくる)。また時には、信者たちを「この道(the Way)の者」と呼んでいます(使徒9:2; 22:4; 24:14)。これは彼らが、「わたしが道……です」と言われた方に従っていたからです(ヨハネ14:6)。
しかし、もしパウロに「あなたは自分のことを何と説明しますか?」と尋ねるとしたら、彼の答えは先に述べたどの答えとも違っているでしょう。彼は、こう答えるはずです。「私はキリストにある者です」
私が十代のころに、コリント人への手紙第二12章1-10節を読んだときのことを覚えています。この箇所で、パウロは自分が受けた特別な啓示や、自らを高慢から守るために肉体に与えられたとげについて語っています。この箇所の冒頭で、パウロは「キリストにある一人の人」を知っていると言います。その人は神の不思議な恵みに満ちた特別な啓示を受け、それがあまりに素晴らしいものであったため、人に語ることも正しくないと感じるほどでした。これを読んだ当時、私はこう思いました。「この匿名の『キリストにある一人の人』とは、一体誰なのだろう?」 私の思考が鈍かったのかもしれませんが、その答えは段々とわかってきました。パウロは自分自身のことを語っているのです! これは、彼が自分自身を表現する基本的な方法です。なぜなら、この呼び名こそが、彼が自分について抱いている根本的な考えだからです。パウロは、「キリストにある一人の人」なのです。
「キリストにある(in Christ)」という表現と、その同義表現(例・「in him」)を心に留めてみましょう。そして、パウロの13通の手紙が収められているおよそ60ページほど[訳注:日本語聖書では130ページほど]の箇所にざっと目を通してみてください。「キリストにある」「キリストにあって」という表現が、80回以上あることに気が付くでしょう。さらに「主にあって」「主イエスにあって」など同義表現を含めると、その数はほぼ倍になります。
もしこのことに初めて注目したなら、パウロがこれらの表現をどれほど頻繁に使っているかに驚いたことでしょう。そして、なぜ今までそれほど注意を払わなかったのか不思議に思うかもしれません。しかし、何年も、あるいは何十年もパウロの手紙を読んでいたとしても、この短い前置詞を含む表現の重要性に気付かないままでいることは十分にあり得ます。この表現こそが、パウロがクリスチャンであることを説明するための、基本的な方法だからです。
この表現、すなわち称号「キリスト」に続く前置詞と動詞「にある」は、これらの手紙全体の中心テーマを形づくっています。これらの手紙を読み終えるころに、「これは、この短い表現についての一番長い解説だ」と思ったとしても無理はないでしょう。それでもなお、ここに書かれている内容は、この豊かで素晴らしい教理のほんの表面をかすめるに過ぎないのです。しかしどうか、聖書のさまざまな角度から「キリストにある」の意味を理解し、それらがあなたにとっての励ましとなることを願っています。あなたがキリストに属しているなら、これこそが、あなたの本当の姿です。日々の生活の中で、あなたはまぎれもなく、「キリストにある一人の人」なのです。
ある新約聖書学者が、映画『ゴッドファーザー』について指摘したことがあります。それは、この映画の中では「マフィア」という言葉は一度も使われていないのにも関わらず、その概念が映画全体の根底に前提として存在する、ということです。 同じように、「キリストにある」という特定の表現そのものが使われていない場合であっても、その意味するところは、使徒パウロがクリスチャン生活について語るすべての土台となっています。それだけでなく、この表現は、個々の信者や教会全体を悩ませる多くの問題に解決を与える「溶剤」のような役割も果たすのです。
新約聖書は、「キリストにある」とは何であるかを定義したり説明したりしていません。しかし、この真理の重要性を理解する最善の方法は、「キリストにある」ことに何が含まれるのかを、さまざまな箇所を通してじっくり味わうことです。ここで、「キリストにある」ことの重要性を自ら認識することが、私たちが取り組むべき第一の課題です。そのための最良の方法として、パウロによるエペソ人への手紙の1章を通して、この表現がいかにして用いられているかを考察することをお勧めします。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

