
聖書
2025年03月06日(木)
キリスト
2025年03月11日(木)キリスト

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第七章の記事です。
J・G・メイチェンが『キリスト教とは何か』で強調していることの一つは、イエスを正しく理解する必要性です。献身的な教会のリーダーであり、また聡明な学者であったメイチェンは、教会と学会の両方で、イエスについての非正統的な見解があることを熟知していました。現代でも同じような誤った見解がしばしばあります。今日、学術文献の中では、イエスはナザレ出身のユダヤ人預言者としてしばしば語られ、ある意味では神の子であったとも言われていますが、これは必ずしも神性を持つ神の子として理解されているわけではありません。多くの場合、ナザレのイエスは人間であったとされ、それについては多くが語られますが、イエスを神である御子として語るのはあまりに思弁的だとされています。しかし、私たちは気をつけなければなりません。正統派のキリスト論は、イエスを単にナザレの出身者として考えるのはまったくの誤りだと警告しています。同時に、イエスの真の人性を否定することも誤りであり、これもまた、正統派のキリスト論では絶対に妥協できない点です。このような扱いにくい海を航海するためには、キリストの教理を私たちがしっかりと適切に表現する必要があります。
感謝なことに私たちには、キリストについて正しく考える助けとして、教会の偉大な信条を忠実かつ聖書的に考察してきた何百年もの積み重ねられた歴史があります。まず最初に、キリストについて語るということは、三位一体の第二位格(person)である永遠の神の子について語ることであるということを理解しなければなりません。キリストは神性を持つ神の子であり、この神であるお方(person)は、受肉されたお方として私たちに現れてくださいました。したがって、イエス・キリストを、私たちに現れたナザレ出身の人間として語ることは適切ではありません。また、受肉において二つの人格(persons)がおられると考えるのも間違いです。すなわち、受肉において神性なる人格と人性なる人格の両方が私たちに現れたというのは、正しくありません。そうではなく、イエス・キリストは一人のお方(person)であり、人の本性を帯びた、神の本性を持つお方です。イエスの人としての本性においては、ベツレヘムで生まれ、ナザレで育てられましたが(マタイ1:18-23; ルカ2:1-14)、永遠なる神の子であるイエスの真の起源は永遠です(ミカ5:2)。
これには、位格的結合(hypostatic union)として知られる概念を正しく理解する必要があります(ウェストミンスター信仰告白8.2参照)。位格的結合は、受肉において、二つの本性(神性と人性)がキリストという一つの人格(person)の中で結合したことを教えています。位格(hypostasis)という用語(hypostaticの語源)は神の位格を意味し、結合(union)は、神性と人性という二つの本性が一つの人格(位格)において結合していることを示します。つまり、受肉において、キリストはその神性を保ちながら、人性も帯びた(または引き受けた)ということです。しかし、これらの二つの本性は、混じり合ったり、変化したり、分けられたり、分離されたりすることなく、キリストという一つの人格の中に結合しています。それぞれの本性が単独で行動することはなく、常に神の子という一人の人格が行動します。これは重要なキリスト論的原則を表しています。それは、人格が行動するのであって、本性が行動するのではないということです。さらに、キリストという一人の人格は、それぞれの本性にふさわしく行動します。したがって、受肉において、神の子はそれまでの本性は変わりませんが(神性)、真の人性を帯びています。それは、私たちのため、そして私たちの救いのためです。位格的結合において、私たちはキリストが真の神であり真の人であること、そしてキリストが一人の人格であり続けられることを語ります。
おそらく、位格的結合が常に正しく承認されてきたのではないことは、驚きではないでしょう。異端の中には、キリストについて間違った考えを提示しているものもあります。アリウス派は、御子は父なる神と同じように完全な神ではないと教えました。しかしこの見解は、イエスの完全なる神性に関する明確な聖書の教えを見逃しています(例・ヨハネ1:1; 20:28; ヘブル1:8; 一ヨハネ5:20)。さらに、神性について考えるとき、中途半端な線引きはありません。イエスは神であるか、そうでないかのどちらかしかありません。別の異端は、イエスは真の人ではなかったと教えました。例えば、アポリナリオス主義は、イエスは人間の精神を持っていなかったと教えました。しかしこれは、イエスを人間より劣るものとすることであり、それは人類の救い主としてふさわしくないことになります。私たちはみな、贖いを必要とする罪深い精神を持っているからです。エウテュケス主義は、キリストにおいて神性と人性が何らかの形で混ざり合い、第三の性質、すなわち神性と人性の合わさった別のものになっていると論じました。しかし、これはイエスが私たちと同じような人性を持たないことを意味するため、この見解は否定されなければなりません(ヘブル2:14-18参照)。また、頭をもたげ続けているもう一つの異端に、ネストリウス主義があります。この見解は、キリストには二つの人格があると教えたもので、アレクサンドリアのキュリロスや、紀元後431年のエフェソス公会議によって誤りとして反論されました。正統的なキリスト論は、キリストは一人の人格として教えています。
メイチェンは、なぜこれらが重要なのかを理解していました。福音書の中でイエスは、群衆の憶測とは対照的に、弟子たちがイエスの真の姿を知ることを望んでおられました(マタイ16:13-17)。イエスはキリストであり、生ける神の子です。弟子たちは、イエスが人間であることをはっきりと知っていましたが、イエスがメシアであり、神である御子でもあられることを認識する必要がありました。他の箇所でも、パウロは、私たちがイエスについて正しく告白することを求めています(例・ピリピ2:6-11; 一テモテ3:16)。キリストについて正しく考え、正しく語ることは、すべてのクリスチャンにとっての聖書的関心ごとです。決して、神学者だけの抽象的な思弁であってはいけません。メイチェンはこう書いています。「しかし、もしもイエスが新約聖書が示すような方であるならば、私たちは私たちの魂の永遠の運命を安んじて彼にゆだねることができる」 この問題がなぜ重要であるかは、次の通りです。私たちの救い主は、私たちを罪から救うために、真に神であると同時に真に人でなければなりません。神であられるお方だけが、罪に対する神の怒りに耐え、私たちに永遠のいのちを与えることができます(ウェストミンスター大教理問答38; ハイデルベルク信仰問答17参照)。しかし、私たちと同じ性質を持つ人であられるお方だけが、初めに罪を犯したときと同じ性質で、私たちの罪のための呪いを負うことができます(ウェストミンスター第教理問答39; ハイデルベルク信仰問答16)。イエスだけが、完全に従順な第二のアダムであり、第一のアダムの不従順に打ち勝つと同時に、永遠の神の子であり続けるお方です。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていません。イエスだけが、復活し栄光を受けられたすべての主であり、真に神であり真に人であるからです。
教会の偉大な信条は、私たちを救うために地上に降りてこられた、三位一体の第二位格であるキリストについて語っています。このお方は神となられた人ではなく、人となられた神です。これは非常に大きな意味を持つ、決定的な違いです。信条に背くかたちで、イエスが第一に人であるとして語ったり、あるいはイエスを人間である人格のように語ることは、福音の中心的なことがらを否定することになります。メイチェンは自身も、身代わりの贖罪は、キリストの人格の唯一性を示すものであると考察しています。私たちの罪の状態はあまりにも悲惨なため、単なる人間ではその泥沼の深みから私たちを助け出すことなどできません。私たちは、単なる模範や教師を必要としているのではありません。救い主を必要としているのです。メイチェンがこのように主張したとおりです。「イエスは単なる信仰の模範ではなくて信仰の対象である」 私たちは、救われるために単なる人間を必要とはしていません。しかし、真に人であるお方が必要です。真に神であり、真に人であるお方です。私たちは、イエス・キリストが必要なのです。それはメイチェンの時代においても真実であり、私たちの時代においても真実であり続けるのです。
1『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。p. 135.
2 同上 p. 158.
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。