
契約神学について知っておくべき五つのこと
2025年05月12日(木)地獄について知っておくべき五つのこと

地獄というテーマは飲み込み難いものであるため、教会内外の多くの人々がその概念を和らげようと試みてきました。どうして愛なる神がそのような悲惨な場所に人々を送ることができるのか、という疑問が生じるからです。しかし神は、地獄の教理の説明責任を私たちに転嫁しようとしておられませんし、また私たちがその教理を和らげることも許されません。実際、私たちが地獄について知ることのできる多くのことは、愛なるイエスご自身から来ており、地獄に関するイエスの教えは旧約聖書の教えから発展するものです。この記事では、地獄について知っておくべき五つのことを紹介します。
1. 地獄は実際にある場所であり、意識のある、悲しみが永遠に続く場所である
霊魂消滅説(annihilationism)、または条件的不死性(conditional immortality)として知られる誤った教理は、悪しき者は最後の審判で滅ぼされると主張します。死後の意識や、永遠の刑罰について心配する必要はないと言うのです。この見解に反して、聖書は、地獄が意識のある場所、永続的な苦しみの場所であると教えています。地獄の苦しみは終わることがありません(ユダ13節; 黙示20:10)。例えばルカの福音書16章では、「よみで苦し[む]」金持ちの人が描かれており(ルカ16:23)、自分の悲惨な状態を意識していること、そして苦しみ続けるくらいなら自分の存在を消し去ってほしいと願っていることが明らかです。
また「セカンドチャンス」という概念にも、聖書的根拠はありません。地獄の住人の状況は永遠に変わることがありません。死の瞬間、その後永住する住まいが決定するのです。したがって、地獄にある魂が最終的に滅ぼされる(霊魂消滅説)、またセカンドチャンスが与えられるという考えには、聖書の根拠がありません。
2. 地獄は、全人類が最終的に行き着く二つの可能性のうちの一つである
人が死ぬとき、その人の肉体は埋葬され、その人の魂はすぐに神の臨在へと移されます。そこで神がその魂を天国に迎え入れるか、地獄に投げ込むかのどちらかです。ウェストミンスター信仰告白32.1には、このように書いてあります。
人間の体は、死後塵に塵に帰り、朽ち果てる。しかし彼らの霊魂は、死にもせず、眠りもせず、不死の存在性を持っていて、それを与えられた神に直ちに帰る。義人たちの霊魂はその時完全に聖くされて、最高の天に受け入れられ、そこで光と栄光のうちに神の御顔を仰ぎ見て、自らの体の完全な贖いを待つ。そして悪人たちの霊魂は地獄に投げ込まれ、そこで苦しみと全くの暗黒の中にとどまり、大いなる日の審判を受けるために残しておかれる。聖書は、体から離れた霊魂に対して、この二つの場所以外に何も認めていない。
終わりの日、すべての魂は再び体を得ます。その時点で、義人は永遠のいのちに入り、悪人は「永遠の苦しみ」(ウェストミンスター信仰告白33.2)に投げ込まれるのです。繰り返しますが、復活によって再び体を得た魂にとって、この二つの場所以外に、聖書が認める場所はありません。
3. 地獄は怒りに満ちた神がおられる場所である
ウェストミンスター信仰告白33.2で「永遠の苦しみ」と説明される地獄は、「主の御前から退けられ、御力の栄光から切り離されて、永遠の破滅をもって罰せられる」場所です。地獄は神の臨在から切り離される場所だと考えられることがよくあります。しかし、神は遍在するお方です。神が臨在しない場所などあり得ません。むしろ、聖書は地獄を神の不在の場所として描くよりも、神の怒りの存在する場所、神の尽きることのない憤りと罰を経験する場所としています。私たちの神は「焼き尽くす火」(ヘブル12:29)であり、地獄にいる悪人に「怒りと憤り」(ローマ2:8)を注がれる神なのです。
このことがクリスチャンにとって悪く聞こえるなら、それは私たちが神に愛される子どもとして体験する神の姿と一致しない側面だからでしょう。悪人が地獄で経験するのは、キリストによって神の民のために消し去られた神の怒りですが、堕落した者にとっての地獄の現実はその象徴的な描写よりさらに恐ろしいものです。いかなるしるしも、その現実を不完全に表すことしかできません。聖書で地獄が象徴的にしか描写されないのは、聖なる神からの終わりのない罰が、言葉で言い表すことができないほどの恐ろしさであるからです。
4. 地獄の居住者は、そこに住むことを選んだ者たちである
地獄は、光を愛するより暗闇を愛することを選んだ人々の行き先です(ヨハネ3:18-21)。これは、金持ちの男の切実な叫びと矛盾しているように思えるかもしれません。「父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」(ルカ16:24)。しかし、この金持ちの男は突如に神を求めているわけではないことに注目する必要があります。彼はただ、神の罰からの解放を求めているだけです。
カルヴァン主義者にとって、すべての人が最終的に自分が自由に選んだ方——聖霊の新生によって神を礼拝するか、神を呪うか——を受け取ると認めることは容易ですし、そうであるべきです。地獄にいる者たちは不平等だと不平を言うことはできませんし、けしてそのようなことは言いません。なぜなら、彼らはまさに自分が受けるべきもの、自分が選んだものを与えられたからです。聖書は、地獄が、神が悪人に課す罰であること、また人間が自由に選んだ行き先であることに矛盾を見出しません。ゆえに地獄とは、私たち自身の願いや肉の欲望に自分自身を究極的に「引き渡す」場所であると言えます(ローマ1:24)。
5. 地獄の現実は神の性質と一貫している
地獄は神の記録における汚点などではありません。神が履歴書に載せるのを躊躇うような、神というお方に矛盾するようなものではありません。そうではなく、地獄は、罪に対して適切な罰が与えられることを求める、神の聖なる義と一貫するものです。神の正義とその慈悲は、相反する属性ではありません。完全に一貫性のあるものであり、天国と地獄はその聖なる調和の表れです。もし神が正義でなければ、霊魂消滅説や万人救済主義、その他死後に関するあらゆる非聖書的な見解は正しいとされる可能性を得ることになります。
神の御子の御業に見られる神の慈悲と正義について考えてみてください。キリストの御業は、もし地獄が存在しなければまったくの無駄になってしまわないでしょうか? 悪人が消滅したり、何らかの方法で天国に受け入れられたなら、キリストの犠牲は不必要だったということになりませんか? 実際、地獄を否定することは神の性質との一貫性を失うだけでなく、神の御子を踏みつけることと同等の行為です(ヘブル10:29)。神の性質は、その正義も善良も、悪人に対して罪への適切な、完全な罰を下すことを要求します。
地獄についてまだ語るべきことはありますが、これだけは覚えておいてください。聖書にある地獄に関する多くの記述は、私たちを地獄から救ってくださったキリストの恵みを拡大するため、そして他の人々が、キリストに対する真の信仰と悔い改めによって地獄の苦しみから逃れるよう、私たちがさらに熱心に警告するようになるためのものです。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。