ルツ記について知っておくべき三つのこと
2024年08月07日(木)
列王記第一・第二について知っておくべ三つのこと
2024年08月09日(木)
ルツ記について知っておくべき三つのこと
2024年08月07日(木)
列王記第一・第二について知っておくべ三つのこと
2024年08月09日(木)

サムエル記第一・第二について知っておくべき三つのこと


サムエル記第一・第二は、士師たちの時代が終わり、ダビデ王政が確立するまでの100年間のできごとを記している書物です。サムエル記には学ぶべきことが多くありますが、この記事ではその中から三つの真理について確認していきましょう。

1. 神はつねにイスラエルに王を与える計画をしておられた

士師記の最後の部分には、このような言葉が記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく……」(士師17:6; 18:1; 19:1; 21:25)。この状態は、最後の士師(さばきつかさ)であるサムエルの時代まで続きました(一サム7:15-17)。サムエルの任期が終わるころ、民の長老たちが彼のもとに来て、王を立ててくださいと求めました。その要求自体は悪いものではありませんでしたが、その願いの背後にあるものが問題でした。長老たちは、他の国々の王のように、自分たちを治めてくれる王が欲しいと願ったのです(一サム8:4-5, 19-20; 10:19)。この要望は、サムエルの存在だけでなく、神と神のご支配を暗に拒否するものだったのです(一サム8:7-8)。

人間の王を持つという考えは、イスラエルの宗教の土壌において異質なものではありませんでした。父祖ヤコブはユダ族が王権を持つと預言していました(創世49:8-12)。申命記17章14-20節では、イスラエルの土地に立てられる王はどのような人物でなければならないかを具体的に述べています。つまり問題は、地上の王が望ましいかどうかではなく、どのような王であるかです。他の国々の王のような王(すなわち長老たちが求めたような王)であるか、神の心にかなう王であるか、なのです。

サウルはイスラエルを治める最初の王として油を注がれましたが、彼は神の命令に背きました(一サム10:8; 13:6-10; 15:1-9)。サウルは神の心にかなう人ではなかったのです。神はサウルを王位から退け(一サム13:13-14; 15:10-11)、代わりに別の者を立てられます。

2. 神はダビデを選び、永遠の王朝を約束された

神は、サウルの代わりとして、ユダ族出身の若い羊飼いであるダビデを選ばれました。サムエルはダビデに王の油注ぎをしますが、サウルはまだそのとき王として治めていました(一サム16:6-13)。困難な年月を経て、ダビデはついに王位につきます(二サム5:1-5)。ダビデはエルサレムを征服し、すぐさまそこを首都としました(二サム5:6-10)。

ダビデは神の家の建設を望みました(二サム7:1-3)。契約の箱は、オベデ・エドムの家からイスラエルに返還されていました(二サム6:12-15)。神は、ダビデが神の家を建てるより、神ご自身がダビデの家を建てると告げられました。神はダビデの家の王朝を確立させると約束されたのです(二サム7:8-16)。アブラハム契約を思い起こさせる言葉で、神はダビデを大いなる名とすること(二サム7:9; 創世12:2)、そしてその地での安息を民に与えることを告げられたのです(二サム7:10-11; 創世15:12-21; 出エジ3:8)。

約束された王朝は、主が起こされる世継ぎの子によって成就されます(二サム7:12)。神は言われました。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(二サム7:14)。「子とする」という表現は、出エジプト記4章22-23節で神がイスラエルをご自分の子とすると言われた言葉を思い起こさせます。しかしここでは、「子」とされるのはダビデの息子、一人です。ダビデの子は、イスラエルの民だけでなく国々を治めるようになります(創世3:15; 12:1-3; 詩篇2篇; 110篇)。この、神とダビデの特別な関係性が、なぜ神の家を建てるのがダビデ自身ではなくダビデの子であるのかを説明しています(二サム7:13)。

3. 神は民に身代わりを与える場所としてエルサレムを選ばれた

ダビデ王政の終わりごろ、ダビデは人口調査を実施しました(二サム24:1-9)。このことは主を怒らせます。ダビデはそれが罪であることを知り、主の前に告白しました(10節)。それでもなお、ダビデの罪の結果として、疫病で3日間のうちに7万人の民が死にました。

御使いがエルサレムを滅ぼそうとしたとき、神は思い直し、御使いを止められました(16節)。御使いは「エブス人アラウナの打ち場の傍」で止められます。神はダビデに、その場所で祭壇を築くよう命じられます(18節)。ダビデは行って、その土地を買い取り、祭壇を築き、いけにえを献げます(19-25節)。サムエル記の幕を閉じるこのエピソードの最後の一節は、このような言葉です。「が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった」(二サム24:25)。なだめのいけにえは献げられました。しかしこれが、この場所で献げられる最後のなだめのいけにえとはならなかったのです。

アラウナの打ち場には、歴史的経緯があります。その場所は、モリヤ山とも呼ばれていました。モリヤ山は、神がアブラハムの信仰を試みた場所です(創世22:1-14; ヘブル11:17-19)。アブラハムはイサクをいけにえとして献げようとしましたが、神がアブラハムを止められました。神はその身代わりとして、雄羊を与えられます。また、モリヤ山はソロモンが神殿を建てた場所でもあります(二歴代3:1)。この場所でイスラエルはささげ物やいけにえを献げ、ここで身代わりが誰かの代わりに死ぬのです。

ソロモンの神殿から数百年後、王による最後にして最終的な身代わりが献げられます。エルサレムで、王の王が神の御前に立ち、ご自身の民に代わって神に嘆願するのです。王は自分自身のほかに献げるささげ物は持っていませんが、神は王の願いを聞き入れます。その王はダビデの子であり、神の子、主イエス・キリストです(マタイ1:1-16; ローマ1:1-4)。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

ローランド・マシューズ
ローランド・マシューズ
ローランド・マシューズ牧師は、バージニア州ドレイパーにあるDraper’s Valley Presbyterian Churchの主任牧師。