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2024年08月09日(木)ルツ記について知っておくべき三つのこと
ルツ記は非常に好まれる書物です。ここには、ルツとボアズの喜びに満ちたロマンスが語られます。またルツ記には、神の善意ゆえに、私たちを喜ばしい笑いに誘うような皮肉が豊かに込められています。さらに、この書物が戦士や士師や王たちの活躍の物語ではなく、二人の貧しい女性が失ったものをふたたび取り戻し、希望を得る道を見つけようと模索する物語であることも、好まれる所以でしょう。しかし、ルツ記の魅力はそれだけではありません。
1. 少しずつ道を外させる罪
まず初めに、冒頭のナオミとエリメレクの運命的な旅立ちの決断があります。合理的な決断かのように見えますが、家族は一歩一歩、かすかに主の約束から遠ざかっていきます。エリメレクと二人の息子であるマフロンとキルヨンの死、オルパがナオミやルツとともにイスラエルに戻らずに生まれ故郷のモアブの地に引き返したこと、これらはみな、かつて神に誠実に歩んだ家族が道を見失った様子を物語っています。エリメレクという名前は、「私の神は王である」という意味です。しかし、息子たちが異邦人の娘と結婚したことや、約束の地を捨てて、より豊かに見えたモアブでの生活を選んだことを踏まえると、エリメレクが先を見通していなかったことは明らかです。飢饉は、契約に背く民に与えると神が約束された、警告の呪いの一つだったのでしょう(申命28:15-18, 38-40)。しかし、本来その神のことばを思い出し、その地に留まり、契約に背いたことを悔い改めるべきところを、エリメレクは神の摂理を自己流に読み取ろうとしたようです。「モアブの地には飢饉がないようだから、私たちはモアブの地へ移り住むべきだ」、と。しかし私たちは、決して、神の摂理を誤りなく解釈できる者ではありません。私たちの人生を支配すべきは、自分の個人的な判断による結論ではなく、神のことばでなければなりません。
2. 神の寛容な恵み
オルパとは違って、ルツはナオミのもとにとどまり、義母の民と神を、自分の民、自分の神としようと決心しました。ルツは回心したのです。ここからの物語は、一人のモアブ人の女性が契約の共同体に迎え入れられる経緯を、美しく綴っています。イエス・キリストの御国では、イエスを信じる罪人は、あらゆる部族、言語、国民から歓迎されます。蓋を開けてみれば、ヘブル人のやもめであるナオミのほうが、元異教徒の嫁よりもモアブ人らしい発言をたびたび口にしているのです。例えば、ナオミはルツに、夜遅く、脱穀場でボアズを追い詰め、夫を得るよう助言したようです。しかし、ボアズは神の人でした。彼の誠実さと優しさは、結婚によってルツを契約の共同体に招き入れ、ナオミを苦い思いから新しい喜びへと導きました。もはやルツ記は、ルツ自身が全能者のみつばさの陰に入れられた物語であると同時に、悲しみのうちに彷徨っていたナオミの回復の物語であると言えるのではないでしょうか。
そして、このことにおいて、買い戻しの権利のある親類ボアズは、主イエス・キリストを指し示しています。買い戻しの権利のある親類が果たすべき義務は、死んだ親族がかつて所有していた土地を買い取り、イスラエルの土地からその親族の割り当て地が一族のものとして残るようにすることでした。当然、この義務を果たすことは自分にとっても大きな利益が見込まれました。しかしボアズには、ナオミを養い、ルツと結婚し、エリメレクの後継ぎを育てるという義務も生じたのです。この結婚によって生まれる子どもは、エリメレクの所有地を相続し、ボアズのものではなくなることになります。
ルツ記の文脈では、ボアズより先に権利のある親類がいました。その者は初め、手に入る土地と財産を耳にして乗り気でした。しかし、二人の女性とエリメレクの後継者とを養う義務があると知り、彼はすぐさま手を引いたのです。エリメレクの家族を養う義務は、その土地から得られるであろう利益よりもはるかに膨大なものだったからです。しかし、ボアズにはそのような心配はありませんでした。彼はいかなる犠牲を払うことも、重荷を負うことも、厭わなかったのです。ここにも、ルツ記に垣間見られる福音があります。私たちにも真実で完全なる買い戻しの権利のある親類、イエス・キリストが与えられています。このお方は、ご自身のいのちという非常な犠牲をも厭わず、教会を花嫁とするために、喜んですべてを献げてくださいました。
3. 取るに足らぬオベデの子孫
ルツ記は、ルツとボアズが結婚し、エリメレクの後継ぎである息子オベデが誕生するところで幕を閉じます。物語は、ルツの受胎に際して、ヘブル語聖書では2回しか使われていないフレーズ、しかも創世記3章16節のエバへの呪いで使われている表現を、ここで用いています。エバは苦しんで子を産み、その子孫は蛇の頭を打つのです。ルツはここで新しいエバとして描かれ、彼女の息子は神の目的のために仕える約束の子どもです(オベデは「しもべ」の意味)。記されているとおり、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデの父です。
ルツ記は、士師記の時代に始まる物語です。その時代は、王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました(士師21:25)。しかし今、私たちは取るに足らない一つの家族の、一見平凡な細部において、神の主権的計画が働くのを目の当たりにしました。神はすべての細部を織り合わせ、ダビデ王の誕生、そしてダビデを通して、王の王、苦難のしもべである主イエス・キリストの誕生を、確かなものとされました。イエスは取るに足らない系図からお生まれになった——すなわちイエスは、私たちと同じなのです。だからこそ、イエスは私たちの身代わりとなり、また私たちの弱さに同情することができます。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

