
福音書の読みかた
2025年11月10日(木)解釈学とは?
編集者注:これはテーブルトーク誌の「解釈学」というシリーズの第十一章の記事です。
「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい」(二テモテ2:15)。使徒パウロが弟子テモテに語ったこの言葉は、神のことばを正しく解釈する責任が私たちにも委ねられていることを思い起こさせます。神がみことばを通して私たちに語っておられる以上、私たちがその語りかけを理解することは何よりも重要なことです。だからこそ、私たちは健全な解釈学(hermeneutics)を必要としています。
解釈学とは、聖書を解釈するための科学であり、また技術でもあります。これが科学であるというのは、聖書を解釈するためには、車の運転に規則があるのと同じように、さまざまな規則があるからです。規則を知らなければ、正しく運転することはできません。しかし、原則を知ることに加えて、それをいつ適用すべきかを見極める必要があります。そういう意味で、解釈学は技術とも言えるのです。聖書は単一的な書物ではなく、複数のジャンル(文学の形式や内容)が含まれており、長い時代にわたって、多くの著者によって、異なる言語で書かれたものです。したがって、ある箇所を正しく理解するには、どの解釈の規則を適用すべきかを見極める洞察が必要となります。これこそ、最終的には、解釈学の目的です。すなわち、聖書本文をどのように解釈し、意図された意味を見出すかを理解することです。
聖書を解釈する際に最も重要なことは、著者が意図した意味を見出すことです。よく起こりがちな誤った聖書の読みかたは、本文を読んでから「この箇所は私にとってどういう意味があるだろうか」と自問することです。もちろん、聖句を自分の生活に適用しようとすることは大切ですが、それは最初に問うべき点ではありません。まず問うべきは、「著者はここで何を伝えようと意図したのだろうか」という点です。この問いを飛ばしてしまうと、聖句に対する誤解や、不適切な適用が生まれる原因になりかねません。以下に、聖書本文から著者が意図した意味を探るのに役立つ、基本的な解釈学の概念をいくつか紹介します。
歴史的文法的解釈法
歴史的に、多くの正統派クリスチャンたち——改革派の伝統に立つ人々を含め——は、聖書の著者の意図を見極めるために「歴史的文法的解釈法」と呼ばれる手法を用いてきました。この手法は古代のアンティオキア派の解釈学に由来し、宗教改革の時代に大いに用いられ、今日の教会においても広く受け入れられています。この手法は、聖書本文の歴史的文脈と文法的形態に注目するものです。
歴史的文脈に関して読者が問うべき事柄は、著者は誰か、当時の読者は誰であったか、本文中に含まれる文化的な言及はさらなる調査が必要か、などです。文法的な形態に注意を向けることは、語の意味を調べ、統語関係を理解し、文章の構造を見極めることが含まれます。これらを学ぶことは、特定の聖句を理解するのに役立つだけでなく、その箇所が前後の文脈とどのように関わっているかを問う助けにもなります。聖書本文を適切な歴史的および文法的な枠組みの中で読むことの重要性を要約するならば、このように言えるでしょう——聖書を解釈するうえで覚えておくべき最も重要な三つの言葉は、文脈、文脈、そして文脈です。
歴史的文法的解釈法は、聖書を字義通りの意味に従って解釈することを重視します。この「字義通り」という表現は、本文の文学的性質を無視して単純化することを意味するのではありません。聖書は文学ですから、比喩表現、象徴、隠喩、その他の文学的手法を多く含んでいます。聖書を字義的に解釈するというのは、これらの手法を正しく見分け、その箇所の文学ジャンルの通常のルールに従って理解することを意味します。つまり、聖書が詩文や預言書において象徴を用いているなら、私たちはそれを象徴的に理解しなければなりません。そうしなければ、著者の意図する意味を歪めてしまうことになるからです。
信仰の類比(Analogy of Faith)
聖書には、人間の著者だけでなく神ご自身も著者として関わっておられるため、神の著者としての意図も考慮されなければなりません。これを踏まえたうえで、基本的な解釈の原則となるのが信仰の類比(analogy of faith)、あるいは信仰の規則(rule of faith)です。これは、聖書は聖書によって解釈されなければならない、というものです。ウェストミンスター信仰告白の第一章にはこのように記されています。「聖書解釈の誤ることのない規準は聖書自身である。それゆえに、聖書のどの箇所でも、その真の十全な意味(それは多様ではなく、一つである)について疑問があるときは、より明瞭に語っている他の箇所によって調べて知るようにしなければならない」(1.9)。[訳注:『改革教会信仰告白集——基本信条から現代日本の信仰告白まで』関川泰寛、袴田康裕、三好明編、2014年、教文館。496-497ページ。]
聖書には一つの意味(上述したように、字義通りの意味)があることを肯定することに加え、ペテロの手紙第二3章16章で聖書自身が認めているように、聖書には別の箇所よりも理解が難しい箇所があります。神は矛盾のない方ですから、神のことばにも矛盾はありません。したがって、聖書の中で理解が難しい箇所がある場合は、より明確な箇所を参照して解釈する必要があります。
聖書のすべての箇所にキリストがおられる
聖書の著者が神ご自身であられるということがもたらす第二の解釈学的意味として、神の意図は、決して人間の著者の意図と矛盾することはないものの、人間の著者が完全には把握しきれない領域にまで及ぶことがあるということを覚えておく必要があります。したがって、ウェストミンスター信仰告白が「その真の十全な意味」について述べているのは、神の後の啓示が、前の啓示を照らし出すことを認めているのです。
ルカの福音書は、この現実を次のように承認しています。復活されたイエスがエマオへの途上で二人の弟子に会った記述において、ルカはこのように述べています。「イエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)。この数節後に、イエスが残りの十一人の弟子たちに現れたとき、イエスは彼らの心を開いて聖書が理解できるようにさせました。その中には、「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあること」が含まれていました(ルカ24:44)。ヘブル語聖書の三大分野をここで明確に示されたことは、イエスが旧約聖書のすべての箇所がご自分を証ししていることを主張されているということです。私たちは、予型論(typology)についての忠実な用法によって、特に著者としての神がご自身のことば全体に織り込まれたテーマやパターンを追跡することで、聖書のすべての道筋がいかにイエスに通じているかを発見することができるのです。
1 これについて、さらに詳細な説明およびさらなる解釈学的原則については、以下の文献を参照のこと。R. C. Sproul, Knowing Scripture (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2016).
2 多くの文法的・歴史的な疑問点は、本文の細部に注意を払い、適切な問いを立てることで解決できるが、良質なスタディバイブルや注解書などのツールを活用することで本文の詳細な重要ポイントを見極める助けとなる。
3 聖書全体に織り込まれたテーマを見つけ出し、忠実な型の解釈を実践する方法を理解するために参照すべき優れた資料は以下のとおり。Dennis Johnson, Walking with Jesus through His Word: Discovering Christ in All the Scriptures (Phillipsburg, NJ: P&R Publishing, 2015).
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

