私たちのためのイエスの祈り
2022年09月14日(木)
キリストの人格
2022年09月20日(木)
私たちのためのイエスの祈り
2022年09月14日(木)
キリストの人格
2022年09月20日(木)

イエスの祈りの文脈

編集者注:これはテーブルトーク誌の「大祭司としてのイエスの祈り」というシリーズの第二章の記事です。

ヨハネ17章におけるイエスの祈りは、「大祭司としてのイエスの祈り」と呼ばれていますが、「主の祈り」と呼ぶ者もいます。なぜなら、イエスはここで福音書に記録されている中で最も長い祈りを祈るからです。ヨハネの福音書には、イエスが弟子たちの要請に応えて教えられ、マタイとルカ(マタイ6:9-13; ルカ11:2-4)の両方の福音書に含まれている「主の祈り」-「弟子たちの祈り」と呼んだ方が良いかもしれません-は含まれていないことからも、より注目に値します。ヨハネが福音書を書いたときに、すでに書かれていた他の福音書を知っていた、と妥当な想定をするなら、ヨハネはマタイやルカから主の祈りを引用するよりも、十字架にかかる前のイエスの最後の祈りを記録した、と推察できます。

また、ヨハネはイエスの最後の祈りの直後、イエスがローマ当局に捕らえられる直前に、キデロン谷を越えてイエスと弟子たちが入った「園」に触れている(18:1-2)ことに注目しましょう。ヨハネは園の名前に触れないものの、以前に書かれた福音書の読者たちはそれが、イエスが捕らえられる直前に祈られた場所、ゲッセマネであることだと察するのは難しくありません(マタイ26:36-46; マルコ14:32-42節; ルカ22:40-46)。以前に書かれたこれらの福音書によると、イエスが三度、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39; マルコ14:36, 39, 41; ルカ22:42)と御父に懇願したことが記されています。ですから、ヨハネは、あの夜イエスが園に入る直前に祈られた事柄について、私たちの知識を深めているようです。

文脈

最初の三福音書にある、イエスのゲッセマネの園での祈りの記述は、ヨハネが記録するイエスの最後の祈りに対する、興味深い正典的文脈です。しかし、ヨハネの福音書の中での文脈はどうでしょうか。ヨハネはイエスに関する証言を、劇的な二つの幕に分けています。この二幕は学者たちの間で「しるしの書」(2章-12章)と「栄光・昇栄の書 (Book of Glory/Exaltation)」(13章-21章)と呼ばれています。ですから、ヨハネの福音書のふた半分を読むことは、幕間やハーフタイムに挟まれた演劇やフットボールの試合を見るようなものと言えます。最初の一幕では、イエスが息を呑むようなしるしを行われます。ユダヤ人の婚礼で水をぶどう酒に変えることから(2章)、ラザロという者を死者の中からよみがえらせる(11章)にまで及びます。しかし、悲劇的なことに、ユダヤ民族はそのメシアを拒みます(12:36-41)。

第二幕の幕が上がると(あるいはそれぞれのチームがピッチに出ると)場面はガラッと変わっています。イエスは十二人の新たなメシア的集まり、つまり残った信者(13:1で、「ご自分の者」とお呼びになる者たち。1:11参照)をご自身の元へ集めます。そしてヨハネはイエスの復活後、昇栄(exaltation)後の視点から語ります。それ故、ヨハネの「昇栄の書(Book of Exaltation)」は、以下のように始まります。(1:1-18の序文と対である前文に注目。)

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された…イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席からたち上がって…」(ヨハネ13:1-4)

これに、有名な洗足の場面が続きます。ここでイエスは、その後に彼らの罪のために十字架で死ぬことで示すことになる愛、ご自身の者への愛の模範を示されました(19:30; 3:16参照)。このようにして、洗足の場面は、十字架の「予告編」となるのです。(13:1「彼らを最後まで愛された。」ここでいう「最後まで [to the end]」とは、文字通り「最後まで」という意味と「最大限に」という意味の両方を含むと推察できます。)

ヨハネの福音書13-17はほとんどが独自のもので、イエスが12弟子との最後の晩餐を描いています(ヨハネは共観福音書を前提としているため、イエスのからだと血による新しい契約の制定について明確に言及していないものの、ヨハネの福音書6章の「いのちのパン」講話は最後の晩餐を反映していると思われることに注目。)来るべき聖霊に関する指示(14, 16章)や、イエスが去った後、いかにしてキリストにとどまるべきか(15章)など、イエスが最も親しい信者たちに残した別れの訓示はここにしか記されていません。ヨハネによるイエスの受難についての記述に先立つ13-17章(「別れ際の講話」[Farewell Discourse] あるいは「上階の部屋での講話」[Upper Room Discourse] と呼ばれる)の全体の構成は次の通りです。ヨハネの福音書13章1-30節では、「別れ際の講話」と「昇栄の書」全体(18-21章の受難の記述も含む)の前置きのようなものとして、洗足の様子が語られています。

信仰共同体がきよめられ、裏切り者が退出した(13:30)のち、イエスは「別れ際の講話」で11人を教えはじめます。イエスの言葉は時折、弟子たちの質問によって中断されますが(例えば、13:36-37[ペテロ]; 14:5[トマス]; 8[ピリポ]; 22[もう一人のユダ])、大部分では、弟子たちがイエスと肉体的には離れて生活できるように、イエスが弟子たちを整えます。イエスの弟子たちは、最愛の主を失うことは全く悲惨なことだと思ったに違いありません。しかし、イエスは、それが実際には良い結果をもたらすと説得しようとされます。イエスが表舞台から去った後、イエスは父と共に、信者に内住させるために御霊を送られるのです。このようにして、ただイエスが彼らと共らおられるのでなく、御霊が彼らの中におられ、彼らの間だけなく、彼らの心そのものの内に、より烈しくより強力な神の臨在があるようになるのです。

もちろん、新約時代の信仰者として、キリストと、私たちの身代わりとしてのキリストの十字架上の死に信仰を置く者として、私たちは聖霊の満たしを経験しましたが、上階の部屋に集った弟子たちにとって、聖霊の働きが満ちるのはまだ未来のことでした。ここで、イエスは、間もなく起こるキリスト教の最初のペンテコステ(使徒2章。ヨハネ20:22で、イエスは弟子たちを任命する時にペンテコステに起こることを予告的に演じておられます)のことを彼らに告げられました。十字架につけられるときの弟子たちの一時的な悲しみを、女性が出産するときの体験になぞらえて説明し、教え終えられます。短期的には痛みを伴いますが、赤ちゃんが生まれるとその痛みはすぐに喜びに変わります(16:16-33)。同様に、弟子たちはイエスの死に対して一時的に悲しみますが、すぐに死からよみがえられたイエスを見て大喜びするのです。

これでもって、イエスは「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(16:33)と締めくくります。このようにして、イエスは、のちに来る患難と、この世とこの世を支配する者(12:31; 14:30; 16:11)に対する勝利を見据えて弟子たちを安心させられます。

祈りの内容

新約聖書において、大祭司としてのイエスの役割を示し、説明するのは主にヘブル人への手紙です。新約聖書はイエスを預言者、祭司、王の三職を果たすお方として描きます。預言者職に関しては、ヨハネが記録した最初の過越祭の際に、エルサレムを初めて訪れたイエスが神殿をきよめ、預言者として行動しています(2:13-22)。詩篇における描写同様、神の栄光と人々の礼拝のきよさに心を燃やしておられるイエスの姿が描かれています(ヨハネ2:17. 詩篇69:10参照)。神殿はイエスの「父の家」(ヨハネ2:16. ルカ2:49参照)であり、メシアの花婿(ヨハネ3:9)であるイエスが、ご自分が去った後に弟子たちのために場所を用意しに行く場所です(14:2-3)。

また、五千人の給食というメシア的しるしをイエスが行われたことを人々が目撃した時、人々は「モーセのような預言者」(申命記18:15-19)の到来の期待通り「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ(ヨハネ6:14、強調筆者)」と言いました。しかし、神殿をきよめた際、イエスは拒絶され、ユダヤ民族に対して裁きを宣言し、さらに、「世に来られるはずの預言者」だと見なされた際は人々が、「自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り[…]退かれた」(ヨハネ6:14-15)ことに注目しましょう。ですから、イエスがガリラヤでメシア的しるしを行う前に、ヨハネがイエスについて述べたように、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」(4:44. マタイ13:57; マルコ6:4; ルカ4:24参照)のです。つまり、ヨハネの福音書では、イエスは確かに預言者であるが、エルサレムのユダヤ人当局と、ガリラヤ北部の同胞の両方から拒絶される人物なのです。

イエスの王職に関しては、五千人の給食の直後に人々が力づくで、イエスを彼らの王にしようとしたのは前述の通りです(ヨハネ6:15)。その後、十字架に架けられる直前の、エルサレム凱旋入城の際、イエスはロバに乗り、ソロモン王のように町に入っていかれます(12:12-19. 一列王1:38参照)。これはイエスが人間的には王の血筋ことを象徴し、また、「恐れるな、娘シオン。 見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って 」(15節. ゼカリヤ9:9参照)という旧約聖書のゼカリヤの預言の成就です。大勢の群衆がイエスに会うために出てきて、ユダヤ人の民族意識を表すために、なつめ椰子の枝を振り-近隣のエリコは「なつめ椰子の町」として知られ、なつめ椰子の枝はユダヤ民族の誇りの象徴だった-「ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。 イスラエルの王に」と叫びました(ヨハネ12:13)。                   

しかし、ここで人々がイエスを王として歓迎したのと同じように、その後すぐに同じような群衆がユダヤ当局と一緒になってイエスを糾弾するのです。ピラトが偽りの裁判の後、イエスを群衆に呈示し、「見よ、おまえたちの王だ」というと、群衆は、「除け、除け、十字架につけろ」と叫びました(19:14-15)。ピラトが、「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」と皮肉で応じると、祭司長たちは、「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と冷ややかに答えます(15節)。「有罪」判決を下した後、ピラトは3カ国語で「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれた、イエスに対する訴状を示す標識を書かせ、十字架の上に付けさせました(19節)。それでは満足せず、ユダヤ人当局は罪状書きが「この者はユダヤ人の王と自称した」に書き換えられるようにローマ総督を説き伏せようとしましたが、ピラトは彼らを一蹴しました(21-22節)。イエスの王職を、ユダヤ人が否定しピラトが肯定したのは深く、悲しい皮肉です。人々に拒まれようとも、イエスは真の預言者であるように、人々がイエスを拒もうとも、イエスはまことに彼らの王なのです。

ヨハネの福音書では、イエスの祭司職は、イエスの預言者職と王職ほどにははっきりと明らかにされてはいません。それでもなお、イエスの十字架上の死はいけにえとして呈示されています。イエスは死ぬことで「世の罪を取り除く神の子羊」です(1:29, 36)。イエスは、ご自分の「羊」のために命を捨てる「良い牧者」です(10:15, 17-18)。その年の大祭司カヤパは、イエスが人々の罪のために死ぬ「一人」であると、正しく、しかし自覚なしに預言しました。それゆえ、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも救いが与えられるようになったのです(11:50-52. 10:16参照)。相反するようですが、大祭司と完全ないけにえの両方として仕え、祭司職の執り成しの務めを果たしたことによって、たとえ形式上はカヤパが大祭司であっても、本当はイエスが大祭司として仕えておられたのです。

また、ヨハネの描くイエスの働きには、常に過越の祭りのテーマが付随していて、エジプトへの隷属からのイスラエルの脱出と解放をなぞり、イエスが過越の象徴的意義を満たしたことが示されています。ヨハネは、パウロの「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」(一コリ5:7)という宣言に間違いなく共鳴したでしょう。このように、ヨハネはイエスが人々から拒絶されても、真の預言者、祭司、王であられることを明らかにしています。実のところ、人々がイエスを預言者、祭司、王として拒絶したことは、イエスのメシア的使命の不可欠な部分でした(ヨハネ12:38-41節参照)。ヨハネは、この枠組みの中で、まずご自分のために(17:1-5)、次に弟子たちのために(17:6-19)、最後に最初の弟子たちの証を通して信者になる人々のために(17:20-26)執り成し、最後の祈りをささげるイエスを提示しているのです。

イエスの性向

ヨハネの福音書の「別れ際の講話」を締めくくる、イエスの祈りの冒頭に現れるイエスの心構えは、罪のないこと(sinlessness)だけでなく、私心のないこと(selflessness)に特徴づけられます。驚くことに、死期を迎えても、イエスは自分のメシア的使命を果たすことだけでなく、弟子たちの霊的幸福と将来の使命に関心を寄せておられるのです。このことにおいて、イエスは仲介者として祭司的姿勢を取られます。「あなた[御父]が下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与える」ことに関心を寄せておられるのです。永遠のいのちとは唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:2-3)。また、自分に栄光を集めることでなく、御父に栄光をもたらすことに関心を寄せているのです(4-5節)。

イエスは、奪うためではなく-自分の目的(agenda)を追求するためでも、自分の地位を高めるためでもなく-むしろ与えるために来られたのです。失われている罪人に永遠のいのちを与え、いのちを与えるためにイエスを遣わした御父に栄光をもたらすために。洗足ですでに現されたように、イエスは、他者への関心を持つ事の模範なのです(ヨハネ13:15-16. ピリピ2:1-11参照)。イエスの「新しい戒め」によれば、イエスが私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合うべきです(ヨハネ13:34-35)。私心がなく、他者へ最大の関心を持つイエスの模範-他者への、際限ない自己犠牲的愛-は、自己顕示と自己中心が、クリスチャンを公言する者たちの間でさえも支配的な世界において、大いに人の罪を明らかにするものです。

イエスはまた、御父がイエスに預けられた者たちが、彼も彼らのことも憎む世界にあって霊的に守られることに関心をもっておられます。「あなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」(ヨハネ17:11)。弟子たちはこの世にあっても、この世のものではないのです(11, 14, 16)。イエスはすでに彼らに神のことばを与え、もうすぐご自身の御霊を遣わされます。イエスの祈りは、御父が信者を世から取り去ることではなく、彼らが世にある間、御父が彼らを保ち、「悪い者から守ってくださる」ことです(15)。ですから、イエスの祈りは、神のことばの真理による信者の聖別-彼らの聖化-なのです。

さらに、この聖別は、彼らが自分の聖さに酔いしいれるため、自己中心な目的のためではないのです。そうではなく、宣教(mission)のためです(ヨハネ17:18)。聖化の宣教的目的はしばしば見落とされますが、これは非常に残念なことです。なぜなら、宣教は聖化の結果であるだけでなく、逆に宣教は聖化された人々―御霊に内住され、神のことばに従順で、お互いに愛し合い、キリストへの忠誠において共通していて、世界への宣教の使命において一致している者たちによって行われなければならないからです(20-26節. エペソ4:16参照)。御霊によって作り上げられたお互いへのイエスの愛によって支えられている、信仰共同体の共通の使命が、ヨハネの福音書17章のイエスの最後の祈りの根底にある展望なのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

アンドレアス・J・コェステンバーガー
アンドレアス・J・コェステンバーガー
アンドレアス・J・コェステンバーガー博士は、ミズーリ州カンザスシティのミッドウエスタン・バプテスト神学校で新約聖書と聖書神学の研究教授、聖書研究センター長を務めている。著書に『The Jesus of the Gospels』Handbook on Hebrews through Revelation』などがある。