神と人間
2025年03月05日(木)
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聖書

編集者注:これはテーブルトーク誌のキリスト教とリベラリズム(自由主義神学)というシリーズの第六章の記事です。

信仰のみによる義認をめぐる宗教改革の戦いは激しいものでしたが、ローマ・カトリック教会との最も激しい戦いは権威に関するものであったという見解は正しいでしょう。純粋な恵みの福音に関する疑問の根底には、「それを誰が言ったのか」という潜在的な疑問があります。この権威の問題は、陰に隠れてはいませんでした。何世代にもわたって、ローマは教会の声こそが真理の最終的かつ無謬の裁定人であると明確に位置付けていました。すなわち、教会が聖書と聖伝(tradition)の解釈を決定し、信仰と理解に関する最終的な言葉を伝える存在だということです。ローマにとって、最終的かつ無謬の声は教導権(Magisterium、司教と教皇の権威ある教え)にあるとされ、教皇がその椅子(聖座)から(ex cathedra)語る場合のみ特別に区別するものとされていました。

宗教改革者たちは、神の理にかなった抗議の声を上げました。教会とその役員は、聖書に対して裁きを下してはいけません。教会はcreatura verbi、すなわち神のことばによる被造物です。そのように理解するならば、教会と役員は神のことばの権威の下にあります。しかしローマは、神のことばだけにある権威を侵害し、教会の派生的権威を決定的権威に変質させ、蔑めたのです。そのため、改革者たちは、聖伝と聖書が等しい権威をもって語るというローマの主張を一様に拒絶し、最終決定ができるとされていた教導権を否定し、その無謬性の主張を否認しました。聖書のみ(sola Scriptura)が、無謬性の称号を持つにふさわしく、最高の審判者としての役割を果たす唯一の存在です(ウェストミンスター信仰告白1.10)。

ローマが奪い取った教導権の権威は、神のことばにひざまづこうとしない人類の執拗な反抗の一つの現れに過ぎません。20世紀初頭のアメリカ合衆国で、J・G・メイチェンは、神学的自由主義という、聖書のことばを否定する、恐ろしい新たな敵と対決しました。この敵は、宗教改革者たちの前では異なる顔を見せていましたが、その声は大きく、影響力は強く、非常に危険でした。メイチェンは自分が戦おうとしている相手をよく理解し、聖書の明確な権威の下で、ルターのような決意をもって、勇敢にこう語っています。「新約聖書のイエスを、私たちの救い主として受け入れるのか。それとも、リベラリズムの教会のように彼を拒否するのか」 神学的リベラリズムは、第一次世界大戦後の近代化(モダニズム)の空気の只中にありました。そして、主流派(メインライン)の教会はその空気をたっぷりと吸い込んだのです。スコープス・ “モンキー” 裁判[訳註:公立学校で進化論教育を禁じる法が破られたことから起こった裁判]で話題になった根本主義キリスト教は、文化的な笑いものとされ、教養ある洗練された人々の格好の嘲笑の的となりました。ハリー・エマーソン・フォスディックによる1922年の有名な説教『キリスト教根本主義は勝利を収めるか?(Shall the Fundamentalists Win?)』は、寛容至上主義を主張する一方で、歴史的なキリスト教信仰の教理は無意味であるという彼の主張が明らかに語られていました。フォスディックは、ただ皆が仲良くすれば良いということを訴えたのです。

しかし、そんな単純なことではありません。フォスディックと、彼のリベラリズム仲間たち——教理は重要ではないという教義を決して妥協しなかった同志——は驚くほど寛容に見えました。しかしフォスディックは、信仰の土台にこだわる人々にはほとんど温情を示しませんでした。明らかに、愛には境界線があり、定義が必要です。メイチェンはすばらしく鋭い言葉を記しています。「外見は極めて単純に見える人間の友情も、実際は教理に満ちている」

メイチェンの有名な考察としても知られているように、神学的リベラリズムはキリスト教の改良型ではなく、当時の自然主義/人間主義的教理に基づく、まったく異なる宗教でした。『キリスト教とは何か』で、メイチェンは、その新しい宗教、その新しい教義、そして自己主張的な権威を見事に暴露しました。「それは、神観、人間観、聖書観[view…of the seat of authority]、救済観においてキリスト教と異なっている」

宗教改革者たちがローマの「聖書観」(seat of authority、権威の座)に対する主張に反抗したように、メイチェンはリベラル教会の「聖書観」の主張に対抗しました。彼が聖書に目を向けたのは、他でもない、聖書が単なる人間の言葉ではなく、私たちに与えられている神のことばであるからです。聖書は人によってもたらされたものではなく(二ペテロ1:19-21)、神の息吹による御声そのものであり(二テモテ3:16)、「神から人間への啓示の記事を含んでい」て、「それは、聖書以外のどこにも見出され」ません。 メイチェンは、聖書が間違いなく「正しい記事」 であることに慰めを得ました。それは、「クリスチャンが礼拝する神は真理の神である」からです。神が真実であるなら、神のことばは——そのすべてにおいて——真実です。この十全霊感の教理(聖書のすべては神のことばそのものである)は、聖書そのもの、またイエスご自身の、確かな証しです。聖書のみが、最終的な権威の座にあるのです。

神のことばという武具を身につけ、メイチェンは鋭い洞察力と、誠実な憐れみの心と、敵意のない明瞭さをもって語りました。彼はリベラリズムの教義、すなわち超自然的な力の否定、罪を罪と認めない罪深さ、人間の究極的な善性を唱える傲慢さ、一見優しそうな寛容の背後で歴史的な神学を歪める行為、そしてイエスを神ではなく単なる教祖とする狡猾さに異議を唱えました。ローマの教導的な権威よりもむしろ、当時を支配していたのは「罪ある人間の移りゆく情緒の上に建てられ」 た神学的リベラリズムでした。揺れ動く情緒という砂の上に土台を置いた主流派の教会は、新たに見出した自由を謳歌しました。聖書が人間によって書かれた書物なのであれば、自分たちの好きなように解釈でき、罪や救いに関する聖書の定義や古代の教義の煩わしい束縛から解放される、と考えました。正統的な教理は過ぎ去った——この新しい時代において、私たちの知識は聖書に優る、と。

J・G・メイチェンは、彼らの間違いを確信していました。そして神の栄光への熱心から、真理の光によって暗闇を暴くために立ち上がったのです。

「自ら欺いてはならない。一世紀のユダヤの教師が、私たちの魂の渇望をいやすことはできない。現代的発明のすべての技巧をもって彼を包み、現代の感傷的な温かい、人を欺くようなカルシウムの光を彼に投じても、それらすべてにもかかわらず、常識はその権利を回復し、私たちの一時の自己欺瞞の故に——私たちがあたかもイエスと一緒にいたかのように考えた——私たちに向かって、絶望的幻滅という報復をたたきつけるであろう」

リベラル派は自分たちが自由を見つけたと信じていました。しかし、メイチェンは反論します。「神の恵み深い意志から自由になるということは、常に、より悪しき主人への隷属を意味している」

聖書に完全に信頼を置くことによって与えられる神からの活力は、たとえ堅苦しい閉鎖的な考えだと非難されたとしても、メイチェンを燃えたたせ、またその炎はすべてのクリスチャンの心をも熱くすることでしょう。

「一つの書物に依拠することは死んだことであるとか、人為的なことであるなどと言ってはならない。十六世紀の宗教改革は、聖書の権威の上に立てられたものであったが、世界を燃えたたせた。人間の言葉に依拠することは奴隷的なことであるが、神の言葉に依拠することは生命的なことである。もしも私たちが自らの計り事にのみ頼むことを余儀なくされ、神の恵みの言葉を持たないならば、世界は暗黒にして陰うつなものであろう。聖書はクリスチャンにとって重苦しい律法ではない。それは、キリスト者の自由の大憲章である」

この自由の中に、メイチェンは堅固に立ち、この自由の中に、すべてのクリスチャンは喜びを得ます。神のことばを、昼も夜も口にする者こそが、嵐に耐え忍び実を結ぶようになるからです(詩篇1篇)。

デイビッド・B・ガーナー博士は、フィラデルフィアにあるWestminster Theological Seminaryにて、学術担当最高責任者、およびグローバルミニストリー部副部長、およびチャールズ・クレーエ組織神学教授を務める。アメリカ長老教会(PCA)の教職長老。著書に『Sons in the Son』『How Can I Know for Sure?』がある。


1 『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。p. 153.
2 同上 p. 80.
3 同上 p. 237.
4 同上 p. 99.
5 同上 p. 106.
6 同上 p. 106.
7 同上 p. 112.
8 同上 pp. 60-61.
9 同上 p. 200.
10 同上 pp. 111-112.


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

デイビッド・B・ガーナー
デイビッド・B・ガーナー
デイビッド・B・ガーナー博士は、フィラデルフィアにあるWestminster Theological Seminaryにて、学術担当最高責任者、およびグローバルミニストリー部副部長、およびチャールズ・クレーエ組織神学教授を務める。アメリカ長老教会(PCA)の教職長老。著書に『Sons in the Son』『How Can I Know for Sure?』がある。