イエスはいかにして世の光か
2026年01月01日(木)
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なぜ祈りが恵みの手段であるのか

編集者注:これはテーブルトーク誌のクリスチャンの成長のための基本というシリーズの第一章の記事です。

なぜ、祈りが恵みの手段と呼ばれるのでしょうか。これは興味深い疑問です。というのも、ウェストミンスター小教理問答は、祈りが恵みの手段であると率直に述べているからです。「贖いに伴うさまざまな益をキリストがわたしたちに分かち与えられる外的な、通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます」(問答88)。しかし、なぜでしょうか。この問いに正しく答えるためには、まず「恵みの手段」が何を意味するのかを理解する必要があります。

神学者たちは、media gratiae(恵みの手段[複数形])を、神がご自身の恵みを私たちの心に注がれるための通路として定義しています。地域の貯水池から家庭の蛇口まで水を運ぶ水道管のように、教理問答にある通りこの「外的な、通常の手段」を通して、神は私たちに救いの祝福を与えてくださいます。神がこの手段をどのように用いられるかを最も明確に見るためには——そして私たちの疑問に対する助けとなるのは——教理問答で最初に挙げられている二つの手段にまず目を向けることでしょう。それは、御言葉と聖礼典です。

御言葉の宣教を通して、主は罪人に救いをもたらされます。それは神の霊が彼らに、御言葉に聞く信仰とそれを信じる信仰とを与えるからです(ローマ10:17)。神はさらに御言葉を用いてご自身の民をきよめられます。パウロがエペソの教会の長老たちに語った通りです。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです」(使徒20:32、斜体は著者による)。

同じように、バプテスマと聖餐という聖礼典も、主がご自身の民に救いの益を十分に与えるために用いられる手段です。当然、私たちは聖礼典(秘蹟)という行為に参加することによって救いを得るのではありません。(ローマ・カトリック教会はそのように教えます。)むしろ、すでに与えられた信仰と、すでに受けた義認によって、主が聖礼典を通して私たちに豊かで完全な救いの益を注いでくださるのです。私たちのバプテスマは、罪の赦しのしるしと印証です(使徒2:38)。主の聖餐は、「賛美の杯は、キリストの血にあずかること」、「私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかること」です(一コリ10:16)。聖礼典を通して、私たちはきよめられ、力を得る恵みを体験するのです。

では、祈りはどうでしょうか。祈りもまた同じように、聖書の中で天の父が私たちに祝福を与えるための通路であることが示されています。詩篇の作者はこう言っています。

よ、私の祈りに耳を傾け、

私の願いの声を心に留めてください。(詩篇86:6)

[訳注:ESV訳では「listen to my plea for grace.」 直訳すると「恵みを求める私の願いを聞いてください」]

このシンプルでありながら深い心の叫びは、詩篇の作者が、先ほどの教理問答の答えと同じように、恵みを求めるための手段として祈りを用いていることを示しています。では、私たちの疑問に戻ってみましょう。なぜ、祈りが恵みの手段なのでしょうか。私たちはクリスチャンとして、同情してくださる大祭司キリストが座しておられる恵みの御座に大胆に近づくことができます。私たちは祈ることで、恵みをいただき、折にかなった助けを受けることを知っているのです(ヘブル4:15-16)。パウロはエペソの教会のために、彼らが神の満ちあふれる豊かな愛を知って力を得ることができるようにと祈りました(エペソ3:14-19)。祈りは、聖徒たちを霊的な共同体へと成長させます(使徒2:42)。未信者のために献げられる祈りは、キリストが彼らに救いの恵みをもたらしてくださるためです(ローマ10:1)。

祈りそのものは、神の御言葉に依存しています。神の御言葉が語られるのを聞いたり、その驚くべき真理を読んだりすることで、神の御言葉を息として「吸い込む」とき、私たちは神の霊に満たされます。そして祈るとき、私たちは御霊のことばと神のみこころを主に向かって「吐き出し」ているのです。何とすばらしいことでしょうか! 祈りはこのようにして、恵みを体験させる手段となっているのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

バリー・J・ヨーク
バリー・J・ヨーク
バリー・J・ヨーク博士は、ピッツバーグにあるReformed Presbyterian Theological Seminaryの学長および牧会神学教授である。著書に『Hitting the Marks』がある。