
黙示文学の読みかた
2025年11月22日(木)
イエスはいかにして「良い牧者」か
2025年12月05日(木)イエスはいかにして「いのちのパン」か
編集者注:これはテーブルトーク誌の「イエスによる「わたしは〜です」」というシリーズの第一章の記事です。
ヨハネの福音書6章48節で、私たちはイエスによる7つの「わたしは〜です」の最初の宣言を聞きます。これら7つのうち6つには、述語名詞(predicate nominative)——パン(ヨハネ6:48)、光(ヨハネ8:12; 9:5)、門(ヨハネ10:7, 9)、良い牧者(ヨハネ10:11, 14)、よみがえりといのち(ヨハネ11:25)、そして道、真理、いのち(ヨハネ14:6)——が含まれており、これらはいずれも、イエスの人格とそのみわざについて私たちに語りかけます。このうち一つ、ヨハネの福音書8章58節の宣言には述語名詞がなく、単に「わたしはある」という神の御名をご自分のものとして語られています。これは、モーセが神の名を尋ねたときに主が明かされた神の御名です(出エジ3:14)。ヨハネの福音書8章58節に記される、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」という絶対的な宣言は、イエスによる「わたしは〜です」というすべての宣言が、イエスの神性を表明するものであることを明確に示しています。ユダヤの宗教指導者たちはイエスがメシアだと信じなかったため、彼らはこの宣言を神に対する冒涜だと捉えました。そのため、「彼らは、イエスに投げつけようと石を取」ります(ヨハネ8:59)。彼らはイエスが主張したご自身の神としての本性の真理を理解したものの、それを信じなかったのです。これから、最初の「わたしは〜です」の宣言を詳しく見ていくなかで、この宗教指導者たちの不信仰が決して些細なことではないことがわかるでしょう。イエスのことばは、まさに、いのちと死に関わる問題なのです。
イエスが「わたしはいのちのパンです」と言われたのは、弟子たちとの長い会話の中でした(ヨハネ6:48)。この談話は、五つのパンと二匹の魚で五千人に食事を与えたすぐ後に起こったものであり(ヨハネ6:5-14)、同時に過越の祭りと仮庵の祭りの少し前のことでした(ヨハネ6:4)。これら二つの出来事はいずれも、イエスが「いのちのパン」であるとはどういう意味かを理解するうえで重要な文脈を示しています。
仮庵の祭りでは、人々は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救出された後に荒野で神が民を養い守ってくださったことを祝います。荒野は決して、生易しい場所ではありませんでした。そこには人が命を保つために必要なものがすべて欠けていました。食べ物や水がなく、昼間には日陰がなく、夜には光がありませんでした。それにもかかわらず、この乾ききった地を旅するあいだ、全地の主はご自身が惜しみなく養う方であることを示されました。神は民に必要なものをすべて、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって備えてくださったのです(ピリピ4:19; 参照・一コリ10:1-4)。神がなされた最初の備えの奇跡の一つは、日ごとの糧を与えることでした。民が初めてこのパンを見たとき、彼らはそれが何かわからず、「マナ」と名付けました。詩篇78篇23-25節は、この荒野での備えのパンによる主の善良さを思い起こしています。
神は 上の雲に命じて
天の戸を開き
彼らの上に 食べ物としてマナを降らせ
天の穀物を彼らに与えられた。
それで人々は御使いのパンを食べた。
神は満ちたりるほど食物を送られた。
ヨハネの福音書6章で、ユダヤ人たちはイエスに、モーセが彼らの先祖にマナを与えたように、奇跡を行って自らの力の証明をするよう求めました。それに対して、イエスは彼らを正し、マナを与えたのはモーセではなくわたしの父であると説明されました。さらにイエスは、ご自身こそが彼らの魂を養う天から下ってきたマナあるいはパンであると語られたのです。マナは神からの良い賜物であり、イスラエルの民が約束の地に入るまでの40年間、彼らの身体を養いました。しかしマナを食べた人々も、やがては死にました。イエスは、こう言っておられます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:54)。
イエスが五千人の群衆に食事を与えたとき、イエスはモーセの時代に神がなさったことを再現することで、ご自身こそが備えの主であることを示されました。しかし、人々が再びイエスを探しに来たとき、イエスは彼らが間違った飢えに突き動かされていることを警告されました。彼らは、なくなってしまう食べ物のために働いていました。そうではなく、彼らは永遠のいのちに至る食べ物のために働くべきだったのです。それからイエスは、ご自身がいのちのパンであると語られました。
パンという言葉や、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という表現は、明確にイエスの人性を指し示しています。イエスを信じることは、人としてのイエスのいのちのささげ物を受け取ることです。しかし、「わたしは〜です」という宣言は、イエスの神性についても語っています。したがって、イエスのいのちのささげ物を信仰によって受け取るだけでなく、受肉された神としての、朽ちることのないいのちを信仰によって受け取ることになるのです。食べることは、救いをもたらす信仰を説明するのに適した表現です。なぜなら、私たちが食べるものは身体の中に取り込まれ、いのちを養い、健康を強めるからです。しかし、実際の食べ物や身体とは違い、信じる者の内にあるキリストのいのちは、愛の実践によって消費されたり使い尽くされたりすることはありません。イエスの永遠のいのちは、神に近づき歩むいのちを永遠に保ち続けるのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

