祭司の王国
2022年10月04日(木)
キリストにあって
2022年10月11日(木)
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あなたに充分な主

編集者注:これはテーブルトーク誌の「大祭司としてのイエスの祈り」というシリーズの第八章の記事です。

19世紀のショーマン、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスのP・T・バーナムに着想を得た、2017年のミュージカル、グレイテスト・ショーマンは、名声を得ることに命をかけた男を物語ります。野心に満ち、執拗なバーナムは貧困のどん底から想像できないほどの、世界を巻き込む一大センセーションへと上りつめます。ですが、これはよくある無一文から大金持ちになるサクセスストーリーではありません。桁外れな成功に満足することなく、バーナムはもっと欲します。名声の絶頂に達したバーナムは、批評家を黙らせるために、有名なオペラスターを起用するためにすべてを賭します。このオペラ歌手がコンサートの最後に歌うバラードは、バーナムの欲望を皮肉るかのように、“never enough”(満ち足りない)という叫びを繰り返し、バーナムの飽くなき欲望と最終的破滅を物語ります。彼女は「金の塔はまだ小さすぎる」と歌います。「この手は世界を手にすることができる。でもそれでも足りない」と。

この物語が心に響くのは、人類共通の心の叫びを代弁するからでしょう。エバがより多くを欲し、蛇の誘惑に屈して以来、不満が私たちの世界を苦しめています。グレイテスト・ショーマンのバーナムは、間違いなく21世紀のアメリカを象徴する人物でしょう。これほどまでにモノが溢れ、かつ、これほどまでに不満が蔓延した時代は未だかつてありません。いくらあれば充分なのでしょうか。ジョン・D・ロックフェラーは「もうちょっとだけ」と言いました。私たちの時代に共通するこの精神に抗っても、「今あるものでは満足できない」と私たちを信じ込ませようとする広告を、私たちは絨毯爆撃のように浴びせられているのです。

では、イエス・キリストの福音は、このような共通の欲求に対して何と語り掛けているのでしょうか。第十戒の「貪ってはならない」(出エジ20:17)は、この問題の核心をついています。ウェストミンスター大教理問答の第147問は、ここで求められている義務を「隣人に対する私たちの全ての内的な動きと感情が、彼のすべての良いものに心をくばり、それを助成するような、自分自身の状態についての完全な満足と、彼に対する心からの寛容な心構えである」(新教新書240 ウェストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会大会出版委員会編)だと指摘しています。ここから真に満足することの、神に、また外に向かう姿勢を見てとることができます。

満ち足りることの、神に向かう側面は十戒の前文から最もよく理解できます。主はイスラエルに「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、である」ことを憶えさせます(出エジ20:2)。契約の主として、ヤハウェはご自分の民を隷属から救い、被造世界と、この世の神々と呼ばれる存在に対する主権を示されました。主は、彼らが何かをしたから、あるいはそれに値したからではなく、これらのことを彼らへの愛からなさったのです。主は彼らを贖われただけではなく、イスラエルに安息の地を、この後の日々において、地上での必要をすべて満たす約束と共に与えられたのです。

ここで学ぶのは、真の満足とは、神のご性質とその信実の歴史を知り、神が主権的な知恵と善意によって養ってくださると、信頼することにある、ということです。敬虔な満足とは、自分の運命に受動的に身を任せるというストイックな考えとは異なり、神が自ら私たちを見守り、すべての必要を満たしてくださるという積極的な確信と喜びと感謝です。真の満足とは、神のうちに満足し、神の信実を信頼し、この地上のものは永遠において受ける相続分とは比べものにならないという真理にしがみつくことです。真の満足とは、私たちに対する神の父としての備えを、それがどのようなものであれ、素直に受け入れ、喜ぶことなのです。

満ち足りることの隣人に対する姿勢は、もう少し複雑です。この戒めは特に隣人について述べていますが、(私たちがそれに従っているかは)隣人からは見えない唯一の戒めであるのは皮肉なことです。たとえ私たちがシンプルな生活を送っていても、貪欲であることは可能なのです。あるいは私たちのライフスタイルが単なる個人の好みとみなされることもあります。何だかんだ言っても今の世の中においては、わざと少ないものを持つことに、ある種のプライドとステータスがあるのです。個人の生活向上や 安らぎを目的としたミニマリズムは、モラリズムや間違った宗教の代表的な表現です。これに対して、敬虔な満足とは、隣人の繁栄を心から喜び、困っている人々に熱心に施し、自分の状況や所有物に気を配るよりもキリストの臨在と支配を証しする生き方をすることです。私たちに求められているのは、単に少ないもので満足することではなく、隣人が十分なものを持っていないときに不満を持ち、その必要を満たすために自分の財産から進んで提供することです。このように、満足するとは、単に身の丈にあった生活をすること以上のものなのです。

では、どうすればバーナムの様な「満ち足りない」という思いから逃れ、決して満たされない世の中で塩と光として生きることができるのでしょうか。その答えは、欲望を無くすことではなく、正しいものへの熱烈な希求にあるのです。アウグスティヌスの有名な祈りに「わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(服部英次郎訳『告白』上, 岩波書店, 1976年, 5頁)とあるとおりです。キリストだけが私たちの飢えを満たし、渇きをいやすことができるのです(ヨハネ6:35)。なぜなら、キリストはまず御父のみこころの下にへりくだり、次にその完全な生涯と贖いを成し遂げる死、そして勝利の復活を通して打ち勝たれたからです。キリストはすべてに従い、すべてを勝ち取られました。その中には、信仰によってのみ受けられる恵みによって、キリストが私たちに自由に与えてくださる天国そのものも含まれています。そして、キリストが私たちのためにご自身を与えてくださったこと、キリストは私たちのそばにおられ、決して見放さず、見捨てないこと(ヘブル13:5)を自覚しながら生活します。そうすれば、キリストのうちにすべてを受け継ぐことになる終わりの日まで、キリストが絶えず私たちを強くしてくださること(ピリピ4:12-13)によって、私たちは満ち足りること学び、満足することの模範となるのです。つまり、満足とは単に、より色々なものを望まないことではなく、決して奪われることのないものを切に望むことなのです。

主の食卓で、私は時々、小さなパンと小さな杯以上のものを欲しくなることがあります。しかし、そんな時、この聖なる食事は、やがて来る究極の食事の味見に過ぎないことを思い知らされるのです。たとえわずかなものでも、神が、贈り物として私たちに与えるために選ばれたものなのです。そして、聖餐に与ることにおいて、神の臨在が約束されているので、その臨在はいつも十二分なのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ネイサン・ホワイト
ネイサン・ホワイト
ネイサン・ホワイト牧師は、テネシー州ルックアウトマウンテンにあるキリスト改革派バプテスト教会で牧師を務めている。