
地獄について知っておくべき五つのこと
2025年05月12日(木)
コロサイ人への手紙について知っておくべき五つのこと
2025年05月23日(木)聖書的な意思決定について知っておくべき五つのこと

決断、決断、そしてまた決断——私たちは一日のあいだにもかなり多くの決断をします。もちろん、中には取るに足らない意思決定もあれば(どのコーヒーを飲もうか? など)、人生に大きく影響するような重要なものもあります(どの大学に行くべきか? この就職のチャンスを掴むべきか? 誰と結婚するべきか? など)。これらすべての意思決定において、クリスチャンは神の助けと導きを求めています。この記事では、すべてを網羅するわけではありませんが、クリスチャンが聖書的に正しく意思決定を行うために考慮すべき五つのことを紹介します。
1. 聖書的な意思決定は聖書に基づく決断である
当然のことですが、聖書は、数ある同等の意見から私たちが選び取る一つではありません。聖書は唯一、過ちのない(無謬の)知恵であり、助言であり、導きであり、アドバイスです。聖書は単なる情報を集めた本でもなく、神の息吹とともに私たちに直接語りかけられるかのような神の御声そのものです(ニテモテ3:16)。また別の言い方をするなら、聖書はただ情報を与えるだけでなく、関係を示すものです。天におられる私たちの愛なる父が、私たちの意思決定に際してご自身の導きを与えてくださっているのです。したがって、明らかに聖書に反する決断は単に聖書を拒否しているというだけでなく、私たちの父なる神を拒否していると言えます。そして、必然的に、その決断には結果が伴います。
2. 聖書的な意思決定は祈りによる
聖書的な意思決定は関係におけるものです。つまり、神は耳を傾け、思いを寄せ、答えられます。私たちは単に、人格のないガイドブックを調べているのではありません。ガイドしてくださるお方から直接、ガイダンス(導き)を得ることを求めているのです。私たちはこの本の著者と親しい関係にあります。聖書は神の知恵であり、神の助言であり、神の子どものために書かれています。イエスはその神の子どもたちのために死なれ、神は彼らを子とし、愛してくださいます。神は私たちが求める助けを喜んで与えてくださいます。
あなたがたのうちだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイ7:9-11)
3. 聖書的な意思決定は助言を求める
聖書は、賢明な意思決定を行うために、「助言によって計画を確かにし」(箴言20:18[聖書協会共同訳])とあるように知恵ある者からの助言を求めることをよく勧めています。「知恵は勧告を聞く者とともにある」(箴言13:10)ともあります。もちろん、助言を求める相手は信仰深く、成熟した、聖書の知識に富んだ、私たちのことをよく知っているクリスチャンでなければなりません。私たちの決断を承認したり、私たちの考慮から欠けている潜在的な危険や試練、その他の盲点を警告してくれる相談相手を持つことは大きな益となります。ただし相手が自分より成熟度が低い場合、またノンクリスチャンの友人などの場合は、良い結果は生まれません。多くの場合そのような友人たちは、私たちが聞きたいことを言うだけです。したがって、「聖書の知識に富んだ人」という条件を守りましょう。「悪しき者の助言は欺瞞(ぎまん)」(箴言12:5)であるからです。
4. 聖書的な意思決定は摂理のうちにある
聖書的な意思決定は、神がその主権的な摂理のうちに何を行おうとしておられるかに注意を向けます。なぜなら神は常に、「[神]の全被造物とそれらの全活動に対する、保持と統治」であられるからです(ウェストミンスター小教理問答11)。これはもちろん、意思決定における神のみこころを見極める唯一の要因ではありません。それでもなお、神は私たちの祈りに応えて機会を与えたり、神の摂理によって、私たちを思いもよらなかった方向性に導かれることもあります。神の民は、信仰をもって神に導きを求める中で、神が摂理のうちに私たちを導いてくださると信頼することができます。
5. 聖書的な意思決定はこれらの原則(さらに他の原則も含む)をともに取り入れた決断であり、それは神によって与えられ、聖書によって承認された意思決定である
善意のあるクリスチャンが聖書的でない意思決定を行う一つの方法は、そのプロセスの一部だけを重視し、他のすべての要素を排除することです。神のみこころを見つけるために人々が最も頻繁に誤って信頼してしまいがちな「一つに絞った基準」は、(1)自分は神の摂理を間違うことなく完璧に解釈できると考えること(「このしるしを見た」とか「この夢を見た」など)、そして(2)自分の感情(「これこそ神が私にしてほしいことだと感じる」など)です。これらのいずれかが他のすべての要素を排除してまで重視されると、そこで行われる意思決定はバランスを欠いたものになります。神が私たちの意思決定を助けてくださるという約束は、私たちがそのみことば全体を用いることで実現されるのです。
意思決定をするうえで私たちにある平安と確信は、神が私たちを愛し、私たちのすべての決断において神がご自分の最上の目的を成し遂げてくださるということです。たとえ私たちが「へま」をしてしまっても——そこには当然負の結果が生まれ、私たちはその責任を取ることになりますが——神はなおも私たちの益とご自分の栄光のために、あらゆる罪と過ちを含め、私たちの人生を監督していてくださいます。私たちには、不安な恐れの荒れ狂う嵐から私たちを守る平安と慰めが与えられているのです。それは、神が今なお、ご自身の主権的なみこころによって、神を愛する人たち、神のご計画にしたがって召された人たちのために、すべてのことをともに働かせて益としてくださるということです(ローマ8:28)。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。