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預言書の読みかた

編集者注:これはテーブルトーク誌の解釈学というシリーズの第六章の記事です。

預言書を理解するのは難しいものです。その原因の一つは、神がご自身を夢や幻の中で啓示されたことにあるでしょう。神はモーセとのみ、顔と顔を合わせて直接語られました(民数12:6-8)。大預言書には、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書が含まれます。小預言書には、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書があります。この記事では、預言書を読んで理解するためのヒントをいくつか紹介します。

1. 文脈を調べる

まず、可能な限りできるだけ、読んでいる預言書の歴史的背景、社会状況、そして預言者自身について理解するようにしましょう。これに関しては、『リフォメーション・スタディ・バイブル(Reformation Study Bible)』などの良いスタディ・バイブル(註解付き聖書)が大きな助けとなるはずです。

2. 神の契約の弁護人(代弁者)としての預言者の役割を理解する

第二に、預言者たちは本質的に神の契約の弁護人であることを理解しましょう。彼らは、契約に関わるさまざまな要素——例えば序文や歴史的な導入部分(「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、である」)、民に神の命令(つまり契約の「規定」)を守る義務を思い起こさせるなど——を語りましたが、預言者たちの主要目的は契約の制裁を民に告げることでした。現代の言葉の感覚では、「制裁」というと悪いイメージしかありません(例えば「経済制裁」など)。しかし、聖書における制裁には肯定的な意味も否定的な意味もあります。つまり、従順に対しては祝福、そして不従順に対してはのろいを意味するのです。預言者たちは優れた弁護人のように、王や民に対する訴えをまとめ、神の基準に照らして彼らがいかに失敗しているかを説きました。

3. 預言的表現に注意することを学ぶ

預言的表現(prophetic idiom)は、預言者が将来の現実をどのように語ったかを理解するうえで重要な要素です。ここでの中心的な主張はこうです。預言者は、イスラエルとその部族、土地、神殿の維持や秩序について繰り返し語っていますが、実際には、これらを通して将来の新しい契約に関する来たるべき現実を描いていることが非常に多いということです。したがって、読者は常にこう自問すべきです——「これは預言者の時代の現実について語っているのか? それとも将来の出来事を象徴的に語っているのか?」 つまり預言的表現とは、旧約の預言者がイスラエルに関する事柄を型として用い、やがて来る新しい契約の時代におけるメシア的な現実を描くための表現です。このような表現の性質を理解しなければ、私たちは預言書を誤解して捉えてしまうでしょう。

パウロはこのことをよく理解していました。パウロがアグリッパ王の前で弁明したときでさえ、それが見て取れます(使徒26:19-29)。パウロは預言者たちを引き合いに出し、彼らがキリストについて、また異邦人への宣教というパウロの使命について語っていることを示しました。預言者たちの言葉、すなわち象徴的な表現は、(特に新しい契約の信仰者に対して)外面的な表現の形式と、新しい契約における約束の現実とを区別する必要性を訴えています。

簡単に言うと、預言的表現で新しい契約について語るとき、預言者たちはしばしば古い契約の制度のままの用語を用いて語っているのです。預言に用いられる言語や比喩、また預言者たちが語るときの表現方法は、多くの場合キリスト・イエスのうちに起こるであろうこと、そしてすべての人類に起こるであろうことを描いています。これは例えば、捕囚と離散、イスラエル諸部族の再集結、土地への帰還、のろいの現れかたなどの内容において重要になります。預言者たちは将来に関して全知的な視点で語っているのではありませんが、彼らはイエス・キリストのうちに神が来られること、新しい契約、そして私たちの主が再び来られることに至るまでを確信をもって語り、これらを必ずしも区別して語ることはしていません。それでもなお、彼らが語るとき、預言のさまざまな段階は聖霊の霊感によって一貫した統一性があります。

例えば、ヨエルが聖霊の注ぎや主の大いなる恐るべき日が来ることを語るとき、その預言は単にその時代の聞き手だけに向けられて語られたのではありません(ヨエル2:28-32)。ヨエル書2章は、使徒の働きでペンテコステにおいて引用されています(使徒2:17-21)。さらに、ヨエル書2章28-32節に描かれる同じ表現は、キリストの十字架も表しています。この預言は、最終的には主の再臨において完成し成就すると主張することも、十分に正当な見解だと言えるでしょう。したがって、ヨエルには一つの意図があったとしても、彼の言葉は贖いの歴史全体を通して多くの場面に適用される(着地点がある)のです。ジャン・カルヴァンが預言的表現について説明するときに、この聖霊の注ぎに関する箇所の引用を好んだのも、このためです。

4. 新約聖書が預言書を引用・言及・反響させている箇所を探し出す

第四に、そして最後に、キリストがご自身の弟子たちにエマオの途上で聖書全体にキリストご自身とその働き(または拡大して見ればキリストのからだ、すなわち教会)について書いてあることを解き明かされた以上、私たちは常に、新約聖書が預言書を引用・言及・反響させている箇所を探し出そうとする姿勢を持つべきです。例えばペテロは(彼はキリストの変容を目撃しました)、申命記18章15-19節——モーセが後に続くすべての預言者の原型であることを語った箇所——が、キリストが最後の預言者として帰結点に至ったことを示していると見出しました(参照・使徒3:17-26)。この解釈は、ヘブル人への手紙の著者によってさらに裏付けられています。彼は、モーセが家(古い契約)全体の中で忠実であったとし、キリストは御子として神の家を治めることに忠実であったと記しています。後者の「家」とは、新しい契約のことです。さらに、この家全体(古い契約と新しい契約)を建てられたのは、神です(ヘブル3:1-6)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ブライアン・D ・エステル
ブライアン・D ・エステル
ブライアン・D ・エステル博士は、Westminster Seminary Californiaの旧約聖書学教授である。著書に『Echoes of Exodus』など。